付加価値のない自動車会

~副題 クルマだらけの間違いづくし~

戦前のハーレーワークスライダー 川真田和汪

きっかけはグランプリ出版社さんの一冊の本。それは桂木洋二さんの本『苦難の歴史 国産車づくりへの挑戦』(2008年)だった。日本人の自動車に対する興味は明治時代の後半からすでに湧き起こり、日本の自動車製造というものは、太平洋線戦争前までには一大産業セクターに発展していたことを知り驚いた。各地で自動車レースでさえ始まっていたことにも驚かされたが、中でも私の度肝を抜いたのは国産FF車が開発されていたことである。

同じくグランプリ出版さんの『日本自動車史年表』(GP企画センター編、2006年)によれば、1931年(昭和6年)、川真田和汪(かわまだかずお)という人物が国産初の前輪駆動車「ローランド号」の試作開発(V型2気筒500cc)に成功したとされている。これを知って、すごい技術者がいたもんだと俄然興味が湧き、「ローランド号」と川真田和汪についてネットで調べてみることにした。

う~ん少しは出てくるじゃないか。「ローランド号」は公益社団法人自動車技術会から「日本の自動車技術330選」の一つに選ばれている。後述するが「ローランド号」をベースに製造権を得た会社が同車を「瑞穂号」と名付け、また1934年(昭和9年)に設立された別会社によって「筑波号」と命名された。「筑波号」の実車が「トヨタ自動車博物館」に展示保存されている。サイドバルブの狭角V型4気筒736ccは水冷だ。すごい! 搭載レイアウトは縦置き。四輪独立サスペンションにも驚いた。130台も作られたそうだ。

「ローランド号」を設計した川真田和汪には別の顔がある。元々は大正時代の後半から昭和初期にかけてオートバイのライダーだった。ありがたいことにモーターサイクルフォーラム中部さんという団体なのだろうか「トヨモーターヒストリー 第1回」という記事をネットに掲げていて、その中の冨成一也さんという方の「名古屋オートバイ王国」に、この人物の記述がある。川真田和汪は、1901年(明治34年)に徳島県麻植郡(おえぐん)鴨島村(現在の吉野川市)に生まれたそうだ。徳島県の知り合いが「川真田」という名字は吉野川市辺りに多いと言っていた。300年の歴史を持つ、つくり酒屋に生まれたと書かれている。ということは地元の名士か。3歳の時に一家で現在の韓国ソウルに移住。日韓併合はまだ先のことである。韓国でオートバイの操縦を覚え、1923年(大正12年)に日本に帰国し、ハーレーの専属ライダーとして活躍したとされている。このブログのタイトルは「専属ライダー」を現代風に勝手に解釈したもので、本やネットでこの人物を調べようとしても、ライダー時代については数点の写真と僅かな記述しか見当たらないから、どのような経緯でハーレーがオートバイレースに参加したのか、専属ライダーの実態はどのようなものだったのかわからない。

偉業が称えられていることと比較して情報が少ないと感じるのは、記録が残っていないせいなのか。この人物を深く掘り下げていくことは三つの観点から面白いと思う。一つ目は、ヴィンテージハーレーの愛好家達にとって、興味深いどころか崇拝の対象にも成り得るということである。一体当時のハーレーは日本のマーケットをどのようにとらえていたのだろうか。レース活動はどのように位置付けられ、どのレースに出場し、どのような経緯で川真田和汪に声をかけることになったのか。ハーレーの歴史家は沢山いそうだし、ハーレーの媒体は多いから既知のことなのかもしれない。わかっていないのであれば紐解いてみるのが面白そうだ。300年続いたつくり酒屋さんだったわけだから、今の吉野川市にご親族・ご子孫の方々がお住まいであるような気がしてならない。役場に問い合わせれば何か情報を得ることができるのではないだろうかとも考える。運がよければどなたかから当時のエピソードやなぜオートバイ乗りになったのかを教えていただけるかも知れない。せめてもの願いで、生家(あるいはその跡地)だけでも教えてもらえることができれば、ハーレー乗りにとっての新たな聖地になるのではないかと思う。

二つ目は産業遺産的な人物であることだ。どの情報にも「ローランド号」はアメリカの「コード」を手本に開発されたと書いてある。「コード」といっても「ばっか野郎、カッコ良過ぎだろ」と毎回怒鳴ってしまうリトラクタブルヘッドライトの810は1935年(昭和10年)だから「ローランド号」の試作時期よりも後だ。おそらくクラシカルなデザインのL29というモデルを参考にしたのではないだろうか。この頃の記録が発掘されれば大発見である。手本と言ったって、高級ブランドのコードを買ってリバースエンジニアリングをやっていた訳ではないだろうし、設計図を入手できたわけではないから、果たしてどのように参考にしていたのか疑問が湧く。面白過ぎて寝不足を招く武田隆さん著『世界と日本のFF車の歴史』(2009年)のコードの物語から推理をしてみた。コードの技術はアメリカの「ミラー」というレーシングコンストラクターの技術が基礎となっているそうだ。「ミラー」が製作したFFのレーサーは早くも1925年にはインディ500マイルレースに登場し2位に入る活躍を見せており、1930年には初優勝を遂げている。レース屋の川真田和汪が何らかの方法でインディ500の情報を入手していた可能性はないだろうか。「ミラー」のFF 車に使われている技術そして部品について調べていたとすれば言い過ぎだろうか。この辺りの記録はどこに残されているのか。「ローランド号」の試作開発は名古屋の高内製作所で行われた。高内製作所がネットでなかなか出てこないのだが、中部産業遺産研究会さんが紹介してくれていた。聞いてびっくり。中沖満さんのキラキラ星に出てきそうな「キャブトン」というバイクを製造していた「みずほ自動車製作所」の前身だったのだ。(実際には航空機部品を製造していた「みずほ」の方が前身の前身)1956年に倒産してしまった。この会社の技術遺産を引き継いだ人や会社があれば当時の開発記録の内容を伺ってみたい。きっと大名の書簡が見つかったくらいに面白いぞ。

そして三つ目は川真田和汪のビジネススタイルである。大正から昭和初期の自動車開発というのは今で言うベンチャーだったのだろう。川真田は「ローランド号」を自前で生産することにこだわらなかった。前述の宮内製作所に製造権を移譲したようで、ここで作られたものは「瑞穂号」となり、川真田の働きかけで汽車製造という会社と石川島自動車製作所という会社の共同出資で設立された東京自動車製造が作ったモデルは「筑波号」となった。この会社は軍事的な理由の国策によって存続ができなくなり、おそらく1937年に廃業したと思われる。構成部品を外注し、東京自動車製造が組み立てを行うというスタイルであった。エンジンはあの「メグロ」の目黒製作所が供給したから東京の跡地も聖地として訪れなければならないとなるとこりゃ忙しい。現在、欧米、中国、韓国そして日本を中心にリチウムイオン電池の研究開発ベンチャー企業が数多く起業されている。彼らは自前で生産するのではなく、性能の良い二次電池とその製造方法を開発し、製造権利をライセンス契約するのがビジネスモデルである。100年前の川真田和汪も同じようなことをしていたように見える。この方式で「筑波号」は130台作られた。会社を大メーカーに昇華させることができなかったのだから、結果的には成功者とは言えないのかも知れない。しかし、当時の国内自動車製造の規模から見れば、かなりの台数を産出したと評価されているから、「自動車製造事業法」という製造の許可制度が導入されなければ、生き残っていた可能性もあり悔やまれるところである。

私はこの偉大な人物の足跡を辿る旅をしてみたい。勝手な妄想をすれば、まず吉野川市に向かい、川真田和汪のご子孫から色々とお話を伺う。3年間、徳島県に住んだことがあるから「うだつの町並み」に寄り、ちょっと西に向かってつるぎ町で半田そうめんを喰らうぞ。こんなコシのあるそうめんを関東の人間は食べたことがない。美味い!また少し西に行き、今度は祖谷(いや)そばだ。これは「つなぎ」の無いなんか雑炊みたいなおそばである。これも美味しいのだ。ここまで来たからには「天空のレーストラック」阿讃サーキットにも立ち寄りたい。日曜日だったらレースイベントが開催されているかも。

お次は高知県香南市の四国自動車博物館へ。ここには川真田が愛知県で興した「トヨモーター」という二輪メーカーのモデルが展示されているとのこと。拝みに行こう。東に向かう帰り道、淡路島を通り神戸に抜けるまでのあちこちにリーズナブルな温泉があるから、湯煙の旅にもなる。高速のサービスエリアも綺麗で食べ物も美味しい。

一気に名古屋の話になってしまうが、最後はトヨタ自動車博物館で本物の「筑波号」を拝観する。妄想では開発エピソードなどを聞いた後に実車を見ることになっているから感慨もひとしおというわけだ。

できれば戦前の日本の自動車産業愛する人たちと巡ってみたい。スギちゃんのGジャンベストみたいな格好をした人が大勢で押し掛けると吉野川市の皆様がびっくりしてしまうから(冬場は特に)、ここはひとつ「山城を歩く会」「芭蕉を辿る会」のような歴史ウォークイベントに参加しているおじさん達を見習おう。ポケットがいっぱい付いたベージュ色のベストなんかも「オン」なアイテムだ。な~んだ、普段どおりか。