付加価値のない自動車会

~副題 クルマだらけの間違いづくし~

駆け抜ける綻び

クルマを整備に出す時、どんな代車を貸してもらえるかが楽しみの一つになっている。殆どの場合、整備はホンダのディーラーさんにお願いしている。代車として用意されるのは新し目のフィット・ハイブリッドなどである。慣れていないから乗り味が気持ち悪い。本当はザッツとかゼストとかバモスなんかに乗ってみたいのだが、今時の新しいモデルしか用意していないのだとか。

先日、民間の整備工場に愛車を一週間預けた。入庫手続きをしていると、代車らしき2台の軽が目に入った。1台は割りと最近のスペーシア。これは面白く無さそう。もう1台は信用金庫の外回りの人が乗りそうな白い軽のボンバン。かなり古い。屋根には雹に打たれたような跡がありボコボコだ。スタントカーか。顔付きで三菱車とだけは判った。う~ん、こっちを借りたい。ラッキーなことに代車は白い三菱だった。

整備工場を後にし、おっかなびっくり数100m走ったところで、「これはイイ!」「なんだこりぁ 面白れー!」と車中で叫んでしまった。ミッションは3速のステップAT。ハンドルが軽過ぎてフラフラだ。'70年代のアメ車みたい。好みと100%合致するクルマに出逢ってしまった。「これは何てクルマだ?」「これが欲しい!」と、家に着いてから早速カーセンサーで探した。その正体はミニカの商用バン。後で車検証を見たら2003年式(平成15年式)のGD-H42Vという型式のものだった。軽自動車にしては珍しく油圧式のパワステ。3ATと組み合わさって黄金のパッケージと言えよう。

私が借りたのは「ブーレイ顔」の個体。後期型は「ブーレイ」ではなくなった。いつから切り替わったのか知りたくて「ブーレイ顔」でネット検索してみたところ全然ミニカが出てこない。もう一度ミニカのフロントグリルを見てみたら、「ブーレイ顔」は三菱のワッペンの台座部分の形が正三角形(=富士山型)なのに対して、ミニカのやつは逆三角形で「ブーレイ」でも何でも無かった。年式的にも八代目のミニカは1998年発売だから、オリビエ・ブーレイ(Olivier Boulay)が三菱に来る前のデザインだ。三菱車ファンの間で「ブーレイ顔」に対して賛否両論あるようだが、私の勘違いといっても心に刻まれていたのだからアイデンティティがあったということにしよう。

2010年とちょっと古かったけれども、ミニカについて面白い考察がなされているブログを発見した。『毎日がエヴリデイ』というタイトルだ。「タタ・ナノ不要論  ~日本には三菱・ミニカがある~」だって。そうか確かにこれは和製タタ・ナノなのかも知れない。なにしろ現代のクルマに当たり前にあるものが何も付いていない。翌日、太陽の下で見たら真透明なガラスだった。パワーウインドウはもちろん無し。でも車幅が狭いし後席の窓は嵌め込みで開かないからレギュレーターハンドルで十分。集中ドアロックも付いていない。降りた時に助手席とリアハッチの鍵をかけ忘れそうになる。フュエルリッドオープナーを探しても見当たらずどうなってるのだろうと給油口に向かってみるとここにも鍵穴が。なんだ全部自己責任か。平和ボケした現代人への警鐘。20年くらい前にエールフランスのエコノミークラスに乗った時にものすごい窮屈さを感じた。「貧乏人は乗せてもらえるだけでも有り難く思え」と言われている気がしたことを覚えている。それと比較すればミニカは決して我慢グルマではない。オートマ、パワステでエアコンはバッチリ効くし、熱線付きのリアガラスに間欠ワイパーまで付いている。ラジオもある。時計もある。A地点からB地点への移動をするのに、これ以上人間に何が必要か。おまけに60km/hで走ってるのに80km/hのスリルが味わえるぞ。

自動車評論家の人が乗ったらびっくりする程、粗末なクルマかも知れない。だが私個人は、「なかなかいいクルマを作るじゃないか」と三菱自動車を見直した。確か1995年にお母さんがモデル末期のミラージュ(四代目の1.3リッターの2ドアクーペ。形式まで判らない)の特選車を買ってきた。初めての三菱車だった。経験したことが無い程エンジンのかかりが悪く、買った場所の「カープラザ」で診てもらったところ、「こんなものですよ」と言って真面目にとりあってくれなかった。ある時、軽い接触事故を起こした。自動車保険を使って事故の被害箇所を板金修理してもらおうと「カープラザ」に持ち込んだ。なんと事故とは全く関係の無い所まで無断で修理をして、保険の適用から外れる部分の請求を寄越してきた。私は怒って抗議し請求を取り下げさせた。これはメーカーではなく販売会社・ディーラーの対応の問題だとは思うが、それ以来、三菱自動車には不信感を抱き二度と買うまいと誓った。丁度その頃は、三菱自動車の不祥事が明るみに出た時期と重なり、三菱車に興味を持つことはないだろうという考えを持ち続けてきたのだ。しかし今回ミニカを運転してみて、三菱に対する世間の見方がどうであれパジェロランエボ、デリカが好きで堪らないという人の気持ちが少しでも理解できたような気がする。

前回のブログでクライスラーダイムラー・ベンツの「世紀の合併」について書いた。当時、両社の合併に非常に違和感を覚えた。何から何まで違うクルマ会社という感じがして、どんな相乗効果があるのだろうと疑問に思ったからである。今のフィアット・クライスラー・オートモビルズ(FCA)も私個人の意見としては全然ピンと来ない。しかしそうは言っても、これらは世界一のトップエリート集団が綿密な調査をし、相当の議論を経て下した判断であるから、私があーだこーだと言っても仕方無い。アメリカの自動車市場を侵食してきたのは間違いなく日本車である。高級車セグメントを除きドイツ車でもない。クライスラーにとっては自国の市場シェアを死守・拡大しながら、アジアで強く、欧州大衆車市場と中国にも一定の存在感があるとすれば日本のメーカーと組むしかなかったのではないか。「世紀の合併」の直前にクライスラー三菱自動車の株を手放していたから、あり得ない妄想シュミレーションに過ぎないが、クライスラーと三菱は何らかの形で手を組むことができなかったか。1990年代半ばまでの三菱自動車だったらクライスラーが抱えていた品質問題の改善に貢献できたかも知れない。勿論、大衆向けの小型車づくりは得意。既にマレーシアにも進出を果たしていたからアジア進出の足掛かりにも期待が持てそうだ。クライスラーとの関係も深かった。クライスラー三菱自動車のどちらも「買われる側」となっていたから、もっと強い提携あるいは合併はあり得なかったかも知れないが惜しい話である。結局、三菱は2000年になってダイムラー・クライスラーの支援を受けるわけだが、あらゆる出来事の時期が数年ずれていれば、別の生き残りができていたのかも知れず残念である。

『自動車合従連衡の世界』(佐藤正明、文藝春秋{文春新書}、2009)には三菱自動車クライスラーとの提携の歴史が詳しく述べられている。始まりは1968年(昭和43年)に通産省(現、経産省)が「自動車産業二大系列論」を示したこと。年産100万台規模の会社が二社あれば国内需要の対応に十分ということでトヨタと日産の二大系統に集約させる行政指導だった。当時、三菱重工業は自動車事業なかでも乗用車部門の不振に喘いでいた。重工副社長の牧田興一郎はものづくり屋としてのプライドからトヨタ、日産に匹敵する自動車会社に成長することを夢見た。そして二社に伍していくための道として外資との提携を視野に入れた。1968年6月、クライスラー副社長のA. N. コールが来日する。日産、いすゞ東洋工業(現、マツダ)、三菱重工に提携話を持ちかけた。1970年(昭和45年)2月、両社は基本契約を交わした。同年6月に三菱重工が100%出資して三菱自動車工業が設立された。1971年(昭和46年)の9月までにクライスラーが15%出資し、その後一年毎に10%上積みし最終的に35%まで引き上げるという契約だった。ところが、直後にクライスラーの経営が悪化したため、議決権を維持しながらも出資比率だけは15%のまま据え置かれてしまった。

1969年(昭和44年)に発売されたコルト・ギャランと1976年(昭和51年)のΣ(シグマ)、Λ(ラムダ)との間に挟まれた地味な二代目ギャランの姿が目に浮かぶ人は相当な三菱マニアだろう。初代のハードトップ「GS」シリーズ、GTOシリーズ、そしてΣ、Λのあまりのカッコよさに隠れて全く目立たない。しかし、二代目の中に「GT」というスポーツトリムが存在する。イメージカラーはイエロー。サイドにブラックのスポーツストライプが走る。顔付きとカラースキームがなんともクライスラーのマッスルカー風味で、これは怪しいと思った。茨城県つくば市にあるクルマ・バイクの古カタログ専門店「ノスタルヂ屋」さんを訪ねると、二代目ギャラン「GT」のカタログはあっさりと見つかった。不人気車ゆえに前の持ち主が「こんなの要らない」となったのだろうか。捨てる神あれば拾う神ありである。予想通り、二代目のギャランGTはクライスラーとの関わりから生まれてきたクルマだった。「クライスラーとの共同開発により、アメリカで好評のシンプルな2灯式ヘッドランプ 華麗なボデーサイド・ストライプ。」と謳われている。でもさっぱり売れなかったのでは。

1981年(昭和56年)、日本製自動車の対米輸出台数に自主規制が設けられた。前述の基本契約と同時にクライスラーは米国における三菱車の販売権を取得していた。合衆国流通契約と呼ばれるものによって、米国での三菱製乗用車の販売は2ドア車のみという縛りがあり、且つクライスラーが独占販売権を持つというものだった。これは自主規制が課される直前に改定することができたものの、各メーカーに対する自主規制内での台数割り当ては、過去の販売実績に基づくことになったため、それまで2ドア車しか販売できていなかった三菱自動車の割り当て台数は少なかった。

また、三菱自動車の株を三菱重工クライスラーにしか、クライスラー三菱重工にしか売ることができず三菱自動車の上場を阻んだ。これでは外部からの資金調達ができない。1983年(昭和58年)、舘豊夫が社長に就任した。舘は基本契約の見直しを図るためにクライスラーとの交渉にあたってきた人物だ。上場を前提にクライスラーの出資を15%から24%に引き上げさせることに成功し、これでクライスラーは契約上の35%ではなく出資比率どおりの発言権を持つ(フツーの大)株主になった。1988年(昭和63年)には米国で合弁工場(製造会社のダイヤモンド・スター・モーターズ)を立ち上げ乗用車の共同生産を開始し、株式上場も果たすことができた。

バブル崩壊後も三菱自動車は業績好調を維持してきた。パジェロパジェロ・ミニ、RVRといったRV車だけでなくディアマンテやFTOがヒットするなど業界3位の地位が磐石なものになりつつあった。ところがシェア15%を目指した矢先に業績は暗転してしまう。『自動車合従連衡の世界』には「RVの三菱」がホンダの後塵を拝したことが書かれている。また、『不正の迷宮 三菱自動車 スリーダイヤ 転落の20年』(日経ビジネス・日経オートモーティブ・日経トレンディ編、日経BP社、2016)にも三菱の凋落の一因として、三菱は初代オデッセイよりも前に同様のミニバンを発売すべきだったということが指摘されている。私も日本人があれほど毛嫌いしていたコラムシフト車が年間10万台以上も売れたことに驚いた。クルマに求める価値がスピードや性能から別のものに移ったことを感じ取った。悪路での走破性を意識した本格的なRV車でもない。潮目が変わったことを三菱も捉えておくべきだった。

1996年(平成8年)になると米国三菱自動車Mitsubishi Motor Manufacturing of America)でのセクハラ訴訟問題、1997年(平成9年)には総会屋への利益供与事件が発覚する。1998年3月期に1,800億円という過去最高の赤字を叩き出してしまった。

ダイムラークライスラーが合併を発表したのは1998年5月である。

三菱に話を戻すと、その後、2000年(平成12年)には三菱ふそうリコール隠しおよびヤミ改修が発覚してしまう。乗用車だけでも46万台に上る不具合の隠蔽だった。同年10月、ダイムラー・クライスラーとの乗用車分野における資本・業務提携に合意する。ところが2004年(平成16年)3月に再度のリコール隠し(乗用車、トラック・バス合わせて74万台)が明るみに出て、翌月にはダイムラー・クライスラーから追加支援の中止が発表される。2005年(平成17年)11月、ダイムラー・クライスラー三菱自動車の全株式を売却し資本提携は解消された。2016年(平成18年)、二度の燃費データ改ざんが明るみに出て対象車種の生産および販売停止に陥った。同年5月にルノー・日産アライアンスに加わり現在に至る。

一方のクライスラーも、1991年(平成3年)、再び倒産寸前まで追い込まれ、資金繰りのためにダイヤモンド・スター・モーターズ(DSM)の株を売却。三菱自動車が全てを買い取った。1990年(平成2年)から1992年(平成4年)の間に三菱自動車株の売却が進み、1993年(平成5年)には保有する株はゼロになり資本提携は完全に解消された。但し、その後も三菱自動車からクライスラーに向けてOEM車の供給は続けられた。私が調べた限りでは、ダッジ・コルト/プリムス・コルト(三菱ミラージュ)、プリムス・コルト・ビスタ(三菱RVR)は'94モデルまで、イーグル・サミット(三菱ミラージュ)、イーグル・サミット・ワゴン(三菱RVR)は'96モデルまで、イーグル・タロン(三菱エクリプス)は'99モデルまで、などである。

2007年(平成19年)、ダイムラークライスラー株をサーベラスグループに売却し、クライスラーは2008年12月と2009年2月に政府からの緊急融資を申請した。クライスラー不振の直接の原因は2004年頃から始まったガソリン価格の上昇が2007年から2008年にかけて高騰したことと、2008年のいわゆるリーマンショックの影響でサブプライムローンを活用した新車販売が止まってしまったことである。『ビッグスリー崩壊』(久保鉄男、フォーイン、2009)は、クライスラーを含むデトロイトスリーの構造的な問題に触れており、不振の原因を手っ取り早く儲けることができるピックアップトラックへの過度の依存に求めている。ガソリン価格が高騰するともろに需要が影響を受けてしまうのが大型車だ。こうした事態になるとダウンサイズモノコックボディ化がいつも求められる。しかし、アメリカ人からフルサイズのピックアップトラックを取り上げたら可哀想だと常々思ってしまう。日本人から日本車を取り上げて、これからはクライスラー・ネオン、GMサターン、シボレー・キャバリエポンティアック・グランダムの内から選んでくださいと言われたらどうだろうか。右ハンドルで日本車と同じくらいコンパクトだったとしても多くの日本人を満足させるのは無理だろう。

ちょっと脱線。アメリカに住んだことがある方なら理解できると思うが、彼らの日常の中に高速道路(大部分がフリーウェイ)がある。都市に近づくにつれて1~2キロ毎に、中心街では400mおきくらいに出入口がある。勿論、無料で自由に出入りできる。一方で、少し遠出をしようとすれば、一つの州を抜けるのに500kmくらい走ることもある。私は25年前にアメリカを訪れたのが最後だから、今はフリーウェイの制限速度がどうなっているのか良く知らない。郊外区間の速度制限には65mp/h(約105km/h)、70mp/h(約113km/h)、75mp/h(約136km/h)があるようだ。日本の高速道路のような走り方はまず出来ない。65mp/h(約105km/h)区間を140km/hくらいで走り続けようものなら、5分もしない内にハイウェイパトロールにつかまるだろう。郊外や田園地帯に行くと、ガードレールが無くなり幅が100mくらいある中央分離帯が現れる。中央分離帯と言っても只の草むらなのだが、所々の木陰にパトカーが潜んでいる。面白がって自動車をぶっ飛ばしている人そのものが日本よりも少ないから余計目立つのかもしれない。

こんな道路環境では110km/h~120km/hくらいを低い回転で余裕を持って走れるクルマが丁度よい。小排気量のクルマで金切り声を上げて走るのでは疲れるし、200km/h以上のスピードを安全に走れるクルマはオーバースペックで全然必要ないと思う。また、夏になればアフター5(多くの人がアフター4もやっている)にオンボロのモーターボートをトレーラーに載せて水遊びに興じる姿も珍しくない。牽引する人がとても多いため、ボディ・オンフレーム(ラダーシャーシ)のクルマが根強く人気を得るのも当然だ。

その反面、アメリカ人全員がプレジャーボートを引っ張るようなニーズを持っているわけではなく、また、郊外から都市中心部に通勤する人にとっては、あまりにも大きいクルマは不便だしガソリンも勿体ないし不要である。だから半分はピックアップトラックやそれらをベースにしたSUVが有ってもよいのだが、もう半分は小型のエコノミーカーを真面目に作り続けなければならない(日本の地方都市になぞらえれば、家族用にミニバンが一台あれば、後は軽で十分であるということと似ている)。ところが、小型車を低コスト且つ高品質に作るのはとても難しいそうである。『ビッグスリー崩壊』によると、アメリカ自動車メーカーは小品種・大量生産で高収益を上げてきた。つまり、ボディ・オンフレーム構造のピックアップをベースにSUVの派生車種を展開してきた。その反面、不得意な小型車は自前でやらないということで、世界で役割分担をして小型車の開発は海外の子会社任せにしてきたということだ。小型車づくりについて『アメリ自動車産業』(篠原健一、中央公論新社{中公新書}、2014)という本も参考になった。モノコックボディは精巧な作り込み、部品ユニット間における高い擦り合わせ技術=部品・ユニット間の微妙な調整が必要で、サイズが小さい=リーズナブルなクルマと言っても意外にも作るのが難しいそうだ。このため小型車生産には生産現場における不断の改善・改革努力と従業員の高い技術が要求されるという。これは断然日本のメーカーが得意とするところだ。こうして考えると、乗用車とCUV、エコカー三菱自動車に任せて、三菱の技術を採り入れながらクライスラーピックアップトラックと大型SUVの低燃費化と軽量化を推進する。既にフィアット傘下で進められていることではあると思うが、これが三菱であったら良かったという妄想シナリオが今日の話である。

ウィキペディアを見たら三菱のリコール隠蔽は1977年(昭和52年)に遡るというからちょっとがっかりした。しかし、三菱のクルマづくりの長い歴史を見れば1917年(大正6年)の「A型」から始まり、戦後から数えても1960年(昭和35年)の自社開発乗用車の「500」に辿り着き、それぞれ103年、60年といった年月がある。私が物心ついた1970年代初頭からクルマの免許を取るまでの1980年代後半まで、三菱車には夢があり、カッコ良さがあった。子供だったから気づかなかっただけかも知れないが、少なくとも人を傷つける凶器ではなかったし、カタログスペックをごまかして消費者を欺くようなことは無かったように思える。今後の期待を込めて1996年から2016年までの20年間だけ企業風土が異常だったという見方をしてみてもよいかも知れない。

今回八代目のミニカを借りてから、やたらと街中でミニカを探すようになった。なんといつもの通勤ルート(クルマで5分)に5台のミニカが生息していた。それまではノーマークだったからこれにはビックリ。また、休みの日に地元(茨城県北部)を走っていると必ず2~3台と遭遇するから結構居るのである。リセールバリューが無さすぎて売るタイミングが失われてしまったのか、それとも乗りやすいからいつまでも愛され続けているのか、きっと後者の方だろう。私はミニカを現代(といっても一番新しくて2011年だが)の「国民車(構想)」と認定することに決めた。スバル360、ミニ、カブトムシ、2CVと同じ扱いとする。三菱はベーシックカーを作るのに長けているのかも知れないと感じたのだった。マツダには「走り」とか「独自の低燃費技術」とか「洗練されたデザイン(本当にカッコいい)」の面でポジショニングを取られてしまっているし、スバルにも「走り」と「安全」の面で先行されている。今、三菱が「低燃費」や「安全」を声高らかに謳うと申し訳ないが何だかわざとらしい。基本は無印良品ユニクロのようなベーシックであり、15年いや20年乗っても飽きがこないクルマづくりをする。そして、時々ド派手でバタ臭く、でもやっぱり多くの人にとってカッコいいと思われるような商品を作ってしまう。こんな二本立てが器用にできるクルマメーカーであって欲しい。

クルマの整備が終わったと工場から連絡があった。私は一週間共にしたミニカとの別れを惜しんだ。自分のクルマのことよりも代車の感想をとうとうと述べたところ、整備工場側も面倒くさいから折れてくれた。車検1年を残したまま諸費用込み10万円くらいで販売もしてくれるそうだ。これだったら、頭金、金利、一定期間支払い無しの「ゼロ・ゼロ・ゼロ」サブプライムローンがあればすぐに買えるのだ。