付加価値のない自動車会

~副題 クルマだらけの間違いづくし~

本田宗一郎の手

2015年11月、東急線多摩川駅前の田園調布せせらぎ公園で「多摩川の歴史遺産 モータースポーツ発祥の地 多摩川スピードウェイ・回顧展」が開かれた。素晴らしいイベントで何時間も居座り展示物を見て回った。屋外には1936年式のオオタ車が展示されており、「昭和初期の名車の復元 オオタ OC型・1936年式・フェートン」というレストアの模様を紹介した小冊子が500円で特別配布されていて迷わず買った。

多摩川スピードウェイの大きなエピソードの一つに本田宗一郎とハママツ号がある。他のクルマと接触したはずみで宙を舞うシーンを皆さんもご存知のことだろう。これは1936年に開催された「第1回全日本自動車競争大会」でのひとこま。

今日は本田宗一郎について書こうと思う。しかし重い。う~ん、これは相当重いテーマだ。熱烈なホンダファンでもない私ごときが書いてよいものか結構悩んだ。しかし、戦前の日本の自動車史を面白がっている身として、本田技研工業設立以前の本田宗一郎を追いかけてみたくなった。ホンダの公式サイトにも「語り継ぎたいこと  ~チャレンジの50年~」というページがあり、その中でも詳しく語られている。しかし、日本のモータースポーツの発祥について触れられているものの、ストーリーは本田宗一郎の周辺に限られている感じが否めない。若き日の本田宗一郎の時代にどのようなレースが行われていたのかを全体的に捉えながら本田宗一郎について考えてみたら面白いのではないだろうか。

「熱烈なファンではない」と言っても、それは市販車の話。例えば「タイプR」とかNSXなどに興味が無いというだけである。晩年のお父さん、お母さんはホンダ車ばかり乗っていたし、現在、私自身が乗っているのもホンダ車。13年も所有していて自分でボンネットを開けたのは数回のみ。昨年、ウォッシャー液補充のためにボンネットを開けてみたら「VTEC」と書かれていてビックリした。「こんな廉価版にも付いてたのか?」と言うくらいに興味が無くてホンダの社員さんごめんなさい。しかしレースとなると話は別だ。未だにもっとも偉大なGPライダーはフレディ・スペンサーとNS500で間違いない。F1復帰の噂が出てきた頃、ヨーロッパと日本のF2でタイトルを獲り、いよいよF1かと期待した。確か雑誌『 AUTO SPORTS』が月2回刊行されるようになり、スピリット201ホンダとステファン・ヨハンソンの記事をくまなく読んだ覚えがある。やがてケケ・ロズベルグの手で初優勝し喜びは爆発した。時を同じくしてアイルトン・セナ・ダ・シルバ(当時はいちいちそんな風に書かれていた)が英国F3選手権で破竹の勢いを見せており、すごい新人がいるもんだと驚いた。まだ当時は白黒の小さい記事だった。佐藤琢磨ばりに20戦中12勝! 順番逆だけど。

地元の図書館に行って本田宗一郎に関する本をいくつか借りてきた。本当はこんなことは言いたくない。今まで読んでなかったから。正直者がバカを見る時代に私は偉いのである。アート商会での丁稚奉公の話もレーシングカーの製作の話も当然読むことができた。しかしその反面レース出場についてはどれにもあまり詳しく触れられていない。中にはカーチス号とハママツ号がごちゃ混ぜに語られていたりして、なかなか事実をつかむことができない。このままでは埒が明かないので、思いきって税込み4,180円もする『日本の自動車レース史 多摩川スピードウェイを中心として 大正4年(1915年)― 昭和25年(1950年)』(三樹書房、2017)を購入した。杉浦孝彦さんというトヨタ博物館の元館長の方が著した本である。それはそれは出費に見合う素晴らしい本だった。日本の戦前のレースについてこれ程詳しく書かれたものは無いのではなかろうか。当時活躍された方々のご子孫への取材や、それらの方達から提供された貴重な資料に基づいて書かれている。当時の記録や記事によって一致しない情報が見られるから、複数のソースを照らし合わせながら自動車レースの開催時期や順序、内容などが検証されているのである。自動車マニアには絶対に読んでいただきたい一冊だ。

これを読んでみて自分の無知を恥じた。今までの認識が覆されることがいくつもあった。まず「多摩川スピードウェイの開設が日本のレースの幕開けとなった」という私の思い込みは間違い。多摩川スピードウェイは1936年(昭和11年)に建設された。しかしここに至るまでに約10回の自動車レース(初期を除き興行としても成立している)が行われていたのである。大きな転機はその14年前に遡る。1922年(大正11年)日系移民でありシアトルで自動車販売・修理業を営んでいた藤本軍次という人物が、排日運動の高まりなどの影響を受け日本に帰国した。同年、彼は「日本自動車競争倶楽部(NARC=Nippon Auto Racing Clubかな?)」をエンジニア仲間らと立ち上げた。報知新聞社の後援も受けて同11月に「第1回自動車大競争」の開催にこぎつける。場所は洲先(すさき)埋立地だという。

洲先は現在の東京都江東区東陽一丁目辺りで、沿線で表すと東京メトロ東西線木場駅東陽町駅との間くらいに位置する。『別冊宝島2506号 江戸大古地図』(菅野俊輔監修、宝島社、2017)に掲載されている1850年頃(嘉永3年頃と言われてもイメージが湧かん)の地図を見ると、現在の永代通りの南側すなわち東京湾側数百メートル先には海が迫っている。あーあ、とうとうこんな本まで出てきてしまったか。洲先には1888年明治21年)ある経緯により根津から移転してきた大きな遊郭があった。レースが開催されたのは遊郭に近い現在の東陽一丁目付近だったのか、もしくはもっと東側だったのか。それから数年後に開催されたレースの場所が「砂町」と記録されているものもある。もう少し時代を降ると、現在の江東運転免許試験場の西向に洲崎球場というプロ野球の興行試合が行われていたスタジアムが開設されている。この球場ができる前の空き地を使っていたとは考えられないだろうか。

その後も1925年(大正14年)まで、年に2~3回のペースで場所を変えてレースが行われている。立川飛行場、鶴見の埋立地、代々木練兵場、また大阪の城東練兵場や名古屋練兵場での開催記録もある。順序はこのとおりではない。本田宗一郎が奉公先のアート商会で社長の榊原郁三、その弟の榊原真一らと共に製作したカーチス号(初期の車体にはCURTISSと書かれている)の助手席に乗り優勝したレースは、1924年大正13年)に行われた鶴見の埋立地の大会だそうだ。当時はまだコースのコンディションが悪く、運営のノウハウが確立されていなかったためであろうか、参加者から不評を買ったようなことが書かれている。その後9年の休止期間を経た後、1934年(昭和9年)にレースは復活する。場所は月島埋立地。1マイル(1.6km)のオーバルコースで開催され、19台も出走したというから立派な規模でないか。

再び先の江戸時代の地図を見てみる。そこには石川島と佃島しか無く、「月島」という土地は1891年(明治24年)から埋め立てが始められて作られたようである。どこでレースが行われていたのだろうかと、またもやロマンを掻き立てられる。現在の通称「月島もんじゃストリート」は昭和初期には既に住宅と商店が建ち並ぶ密集地。相当賑わいのあったここではレースができるはずが無い。ある開催記録には「月島4号埋立地」と記されている。これは1929年(昭和4年)に埋め立て工事が完了した現在の晴海で、晴海トリトンスクエアのある辺りをレーシングカーが爆走していたに違いない。ネットで当時の地形の模型を見ることができた。どこからも橋がかかっていない。水運が発達していた日本だから、参加者(車)も観客にとっても特に問題にならなかったか。この大会にもアート商会のカーチス号が登場。全参加車中最速を誇り二つのレースで優勝を果たしている。平均ラップタイムは100km/hを超えた。この時、本田宗一郎は既に独立を果たしている。師匠の活躍に鼻高々だったことだろう。

パーマネントコースが渇望され、藤本軍次は動く。1936年、報知新聞社と共に日本スピードウェイ協会を設立し、東急電鉄の協力や政府の承認も取りつけて多摩川スピードウェイが開設された。同年6月、「第1回全日本自動車競争大会」が開かれ、35台ものレース車が集まった。サーキット側が公表しているグランドスタンドの収容人数は3万人。当日の写真を見るとスタンドは人で埋まっているので3万人が足を運んだということになっているのだろう。余興を除くと5クラスに分けられてレースが行われた。主力は欧米のマシン。この中に「國産小型レース」もあり、7台が10周を競った。本大会の大きなトピックとなったのがオオタ・レーサーの大活躍。規模の小さい(「町工場」という表現も聞かれる)オオタが新興財閥の日産コンツェルンダットサンに圧勝。国産車により30周で争われる「商工大臣カップ」にも優勝し、クラス上位車によるメインイベントの混走レースでも4位に入賞。100周も走った。この結果に観戦していた日産コンツェルン総帥の鮎川義介が大激怒したというエピソードは有名。「貴様ら、次負けたら割腹しろ!」くらいのことは言ったんじゃないのかなというのは私の空想。この時のオオタ・レーサーのスタイリングは美しすぎる。ボディの一部に英語で書かれた「BABY BULLET」がこれまたお洒落だ。

同じ年の10月、多摩川では2回目となる「秋季自動車競争大会」が開催された。この大会で日産のダットサン号は雪辱を果たす。しかし残念なことに前回の覇者オオタは練習中に事故を起こし、ドライバーの怪我とマシンのダメージから出走を取り止めてしまう。したがって直接対決は実現しなかった。翌年5月に行われた「第3回全日本自動車競争大会」(多摩川通算3回目)およびその翌年4月の「第4回全日本自動車競争大会」(多摩川4回目)には、今度は日産が軍用トラックの生産に注力するために不参加となる。それでもなお、第2回でダットサンが記録した平均時速は、その後の大会のオオタ・レーサーに破られることはなかったから、日産も面目を保つことができたと言ってもよいだろう。

 オオタとダットサンの陰に隠れながらハネダ・レーサー「ミゼット・オブ・ドリーム(Midget of Dream)」と名付けられた2サイクル500ccのFFレーサーも出走している。これは以前「戦前のハーレーワークスライダー 川真田和汪」で書いた同氏の純国産レーシングマシンである。嬉しいことに『日本の自動車レース史』から川真田和汪がどのようにFFを設計したかについてのヒントも得ることができた。なんとコードを手に入れて乗り回していたとのことである。実物を範としてFF車を開発していたのだろう。ハネダ・レーサーは「秋季自動車競争大会」の「グッドリッチカップ」15周で優勝している。

「この頃のレシプロエンジンの動弁機構はサイドバルブしかないのだろう」という私の思い込みも吹っ飛ばされた。SV→OHV→OHC→DOHCが正常進化というのは一般車への普及の順序だけを指しているようだ。オオタ・レーサーは水冷だし直列4気筒だし、もうツインキャブになっている。サイドバルブ748ccで23馬力。一方、ダットサンのレーサーには2種類あって、市販ベースの「NL-76」はサイドバルブ722cc、遠心式スーパーチャージャー付きで22馬力、本格レーサーの「NL-75」はなんとDOHC747cc、これにルーツ式スーパーチャージャーが組み合わされている。馬力は不明。3ベアリング化もされている。ハネダ・レーサーは自社で開発した小型船舶用の水冷2気筒のツーストローク。オオタ・レーサーは多摩川での大会を重ねるごとに空気抵抗の軽減を試みたのだろうか。スタイルはウェッジシェイプを帯びてくるようになる。みんなそれぞれスタリングが違っていて独自のカッコ良さがある。あー、外観だけのハリボテのレプリカでもいいから、オオタ・レーサーの初期型とDOHCダットサン、国産FFレーシングカーのハネダの3台が並んで飾られているシーンが見たい。

川真田和汪が出てきたついでにオートバイの話をすると、『日本の自動車レース史』には戦前のオートバイ市場とレースに関するページもある。これによると、クルマよりも遥か前にオートバイのレースは人気を得ていたとのことである。1926年(大正15年)には既に1万台近くの市場規模があった。全国各地にクラブが結成され昭和初期までにオートバイレースの全盛期を迎えていたという。1930年(昭和5年)には多田健蔵(多摩川スピードウェイの自動車レースにも出ている)がマン島TTレースに出場し、入賞も果たしている。だから「日本のバイクレースは浅間から始まった」という私の認識も間違っていた。

多摩川スピードウェイは戦争と共に消え去ってしまった」のかと思っていたら、これも不正解でガックシというか、そうでなくてヨカッタというか、1949年(昭和24年)に「全日本モーターサイクル選手権大会」が催され3万人の観客を動員したそうである。スナップ写真を見ると、人の隙間が無いくらい観客でスタンドが埋まっている。以前、鈴鹿サーキットでの「第1回日本グランプリ」の写真を見て、この時代になんでこんなに自動車レースに人が集まってんだろうと不思議に感じたものだ。2輪も4輪も既にレースという興行が日本人の中に根付いていたのだろう。また、結構日本人ってオーバルトラックが好きなんじゃんとも思った。日本のレース文化はヨーロッパから入ってきたというようなことを言っている人でもいたのだろうか。オーバルアメリカ人しかやらないなんてのは嘘だった。多摩川のバイクレースでのコーナーリング中のショットが掲載されていた。おそらくコーナーへ進入していく様子かも知れない。アメリカのダートトラッカーのシーンと重なって見え、なんだか嬉しくなってしまった。

今日は本田宗一郎について書くと言ってしまったものの、いつまで経っても本田宗一郎が出てこねぇぞ。このまま逃げ切れるものならば...  本には、1965年(昭和40年)に撮影された「日本自動車競争倶楽部(NARC)」第43回総会記念写真がある。60歳の頃の本田宗一郎も集合写真の中に写っている。アート商会の社長、榊原郁三の横に並んでいる。いつまで仲の良い師弟関係であったことが窺える。榊原郁三はアート商会を興す以前、伊賀男爵(伊賀氏広)の伊賀飛行機研究所でエンジニアとして修行を積んでいた。その時の弟弟子がオオタの太田祐雄である。1956年(昭和31年)に他界しており、ここには写っていない。息子でオオタ・レーサーのドライバーだった太田祐一と同じく息子でメカニックを勤めた太田祐茂がいる。榊原郁三が可愛がっていた本田宗一郎とも交流があったことだろうし、レース場に行けば内輪の仲間だったはずだ。倶楽部創設者の藤本軍次はもちろんのこと、あのマン島TTレーサーの多田健蔵も写っている。とにかく本田宗一郎はこういう時代の一人なのである。

多摩川スピードウェイの頃には純国産レーサーもかなりの実力を付けていたものの、この時代のレースの中心となるのは外国製のマシンだった。ブガッティ、ベントレーメルセデス、キャデラック、ハドソン、ピアース・アロー、フォード、クライスラーダッジなど、あらゆる高性能車が走っていた。きっと本田宗一郎は世界トップレベルのマシンの実力を知っていたに違いない。マン島にしてもF1にしても「無謀な挑戦」と謳われているような気がするが、本田宗一郎はきちんとベンチマークが出来ていたのではないかというのが私の仮説である。自社の技術力と有能な若手社員をもって5年もやらせれば世界グランプリでもF1でも勝てると思っていたに違いない。

 さて、冒頭に出てきた宙を舞うハママツ号。あれはいったいどんなマシンだったのか。本によってはフォードV8と書かれている。なるほど、既にフラットヘッドV8が1932年型から積まれていたし、この時の大会に出場していた他のフォードはV8搭載車だったのかも知れない。しかし、ここでも本田宗一郎の他人とは異なる気質を垣間見ることができる。『日本の自動車レース史』には1962年(昭和37年)の本田宗一郎談が掲載されており、氏がハママツ号について回想している。「当時フォードのV8が大流行していたが、それを使うのではシャクだから、みんなの嫌うフォード・フォアを改造することにした。バルブが焼き付かないようベンザを切って銅系統のメタルを溶接したり、スーパー・チャージャーをつけたり、多摩川のコースは左回りだから、エンジンを10度傾けて重心を左にもっていったり秘術を尽した。」と語っている。ということで4気筒のモデルBのようである。勝てそうな手法で勝ったとしても、面白くもなんともない人なのだろう。

 昨年末に発刊されたムック本『RACERS』を買った。Volume 54は「NRの衝撃」、Volume 55は「NRの冒険」でNR500の挑戦が詳細に綴られている。その中の片山敬済(外足荷重なんてくそくらえ)のインタビュー記事に本田宗一郎が登場する。NR500のデビュー戦である'79年のイギリスGPでのこと。視察に来ていた本田宗一郎がチーフメカニックの杉原真一さんを労いに訪ねた。本田宗一郎が手を差し出し握手を求めてきた。杉原さんは握り返そうとするが、自分の手がオイルまみれであることに気付き躊躇してしまう。本文を引用させてもらうと、「で、それを見た宗一郎さんは『汚れた手なんて気にするな!』って言って、『しっかりいいマシンに仕上げてくれよ』って杉原の手を握ったんだ」~中略~『男の手が油汚れになっているのは、男の勲章だ』って。すごいよ。」と片山敬済も男惚れしている。

私は10年以上前、当時勤めていた会社で本田技研工業さんとお仕事をさせていただく機会を得た。ある日の打ち合わせに和光だったか栃木だったか忘れてしまったが研究所の方が同席されていた。本田宗一郎の引退後であるものの、直に触れたことのある最後の世代だという。その方が本田宗一郎について語ってくれた。手がものすごく分厚くて、工具などの金属によって傷だらけだったそうだ。まさに職工さんの手だったと教えてくれた。

「ホンダのチャレンジスピリットが芽生えてきたのは、海外のレースへの挑戦がきっかけだ」と今までずっと思い込んでいた。その理由は、ホンダについて語られる時、「産声を上げたばかりの企業が世界に挑んだ」とか「二輪のメーカーが無謀にもF1に挑戦」というような表現がしばしば使われ、私はそれに触れてきたからだと感じている。確かに「企業」としての本田技研工業の歴史を語るならば全く正しいのかも知れない。マン島TT、世界GP、F1への挑戦には、本田技研としての大義名分があり、それはそれで理解できる。けれども本田宗一郎という人はもっと純粋に、戦争で中断を余儀なくされてしまったレース活動を再開させたくてうずうずしていたのではないかと思う。「発明家」「経営者」である前に「スピードショップのオヤジ」であったのだから。

今ホンダはF1で上昇気流に乗り始めた。セナ・プロ時代のような黄金期が再び訪れることを期待している。耕運機や原チャリも作っている大衆車メーカーが高級車のメーカーを追い回してくれる姿を見たい。そして目的を達成したら、また何かおバカなチャレンジを世界最高峰の舞台でやってくれないだろうか。そう投げかけていながらアイデアが思い付かない。例えば、天下のホンダが全チーム中最低の予算でどれだけの成績が出せるかなんてのはどうだろうか。黄金期でなくても常勝軍団でなくても構わない。勝つことを至上命題とするのではなく、勝たなくても人を喜ばせるチャレンジでもよいのではないか。佐藤琢磨スーパーアグリアロンソオーバーテイクして6位に入賞した時の感動を今も忘れていない。一年に一度か二度、トップチームの1台を引きずり下ろすシーンが見られればファンは歓喜するものである。

いつの日か「ホンダイズム」のルーツをたどり、多摩川スピードウェイ以前のレースを含めたゆかりの地を歴史ウォーキングしてみよう。もう何も残っていないから、ビル街の空を仰ぎ見、思いにふけていたらほぼ不審者だ。それでも私は、市長の「じぇじぇ...じぇんトルマン、スタート・ユア・エンジン」をやってみせるぞ。