付加価値のない自動車会

~副題 クルマだらけの間違いづくし~

申し訳ないが、あまりお役に立てなさそうなK-car情報

会社の同僚にアメ車好きがいる。彼は1988年生まれだから今年32歳を迎える。20代の頃には2005年型の「マスタング」(彼曰く「昔の人は『ムスタング』って呼んでたらしいですね」だって)に乗っていて、かなりのカスタムをしていたそうだ。結婚し子供ができた今ではダッジ・マグナムが愛車となっている。V6、2.7リッターをベースにフロントグリルをクライスラー300のものに換装し、エアサスを入れ大径ホイールを履かせている。彼が生まれた頃のクライスラーのラインナップの話をしてあげたことがあるが、あまりピンと来なかったようだ。物心が付いた頃には「LXプラットフォーム」のクライスラー300シリーズ、ダッジ・チャージャー、ダッジ・マグナムというカッコよくて走りも良いモデルが発売されていたから、「FF車しかなかった」と聞いてもイメージが湧かなくて当然だろう。

1990年のクライスラーの日本市場向けフルラインナップカタログをとっておいた。当時のモーターショーでもらったものだろうか。クライスラー ジャパン セールスから販売されていたのは、クライスラー・インペリアル、ニューヨーカー・ランドウ、ル・バロン・コンバーチブル、プレミアES、アクレイム、そして「ジープ」ブランドでは、チェロキーとラングラーだった。主観的に見れば、どれも欲しいものばかりだが、客観的に見たらこれはないだろう。酷過ぎる。当時のクルマのプロ達はジープシリーズ以外、本当に売れると思っていたのか。当時の日本総代理店に勤めていた人達を集めて座談会を開きたいくらいだ。「いやいや、保守的なユーザーさんがまだまだ沢山いて、結構売れたんだよねぇ」となるのか、あるいは「売れな過ぎて、ずっと釣り堀にいました。おかげさまで今は太公望です」となるのか。30年経ったからといって、あやふやのままにしておいたら、みんなのためによくない。

実際のところ、ジープは別としてインペリアル/ニューヨーカーとル・バロン・コンバーチブルだけは時々見かけた記憶があるが、プレミアESとアクレイムを日本の路上で目にしたことがない。どれも今の日本で探そうとなると、イエティの探索なみになるから注意しなければいけない。

私は特にインペリアル/ニューヨーカー・ランドウが好きである。1988年から1993年まで販売されたニューヨーカーは全長4,920mm、全幅1,760mm(日本仕様)と手頃なサイズのボディなのに、隠しライト、ウォーターフォールグリル、切り立ったリアウインドウにランドウトップといった1970年代の高級車の手法が採り入れられ、角張っていて威厳に満ち溢れたスタイリングを持つクルマなのだ。1990年に追加されたインペリアルはより一層魅力的だ。ホイールベースが12.5cmも延ばされ全長は5,155mmとなった。日本に入ってきたニューヨーカー・ランドウには年代によって2種類のエンジンが積まれていたようだ。一つは三菱製のV6、3リッター、SOHC、もう一つがクライスラー製のV6、3.3リッター、SOHCである。どちらも三菱製と解説されていることがあるが、おそらく後者はクライスラーが開発したエンジンのようだ。これに関してもOHVとされている記事を見かけたことがある。カタログにはSOHCと記述されているので、これを信じることにしたい。

私は1989年まで販売されていた「Mボディ(FR、318cid ≒ 5.2リッター)」のフィフスアベニューには乗ったことがある。これも大好きな1台ではあるが、今だったら絶対にFFの1988~1993モデルを手に入れたい。日本で乗るにはジャストサイズの高級車ではないかと思うのである。エンジンも極度に大きくないから税金面でも有利だ。もう少しだけ年式を遡ると「クライスラー・リムジン」(1983~1986)というストレッチモデルもあったぞ。アメリカ本国だけでなく、ちゃんと麻布自動車から正規輸入車として取り扱われていた。ホイールベースは3,330mm、でも全長は5,350mmだから極端に長いクルマではない。全幅は1,740mm。輸入されていたのは跳ね上げ式の対面シートが備わった仕様で7人が乗れる。今だったらRV車として使いたい。エンジンは三菱製の直4、2.6リッター、SOHC。みんな大好き「G54B アストロン」のようだ。ダックスフンドのような格好で本当に「リムジン」に見えるクルマだが、車両重量は1,500kgと意外にも軽量。最高速は軽く100km/hは出るだろうから、これで十分だ。ウィキペディア(英語版)にも載っているモデルで、その情報によると1,500台も作られたんだって。

 とまあ、いつもながら乗ったこともないクルマを溺愛してしまっている。しかし、徳大寺先生は手厳しかった。『新・間違いだらけの外国車選び』(徳大寺有恒草思社、1992)の中でクライスラー・ニューヨーカーを取り上げ、「率直にいって、このクルマには見るべきものはなにもない」と雷を落としている。アメリカ車だって公平に見てくれていた先生でも、今回ばかりは大目に見てはくれなかった。やはり先生は本質を見抜いていた(まあ、ユーザー以外の誰もが知っていたことだが)。先生は正義感が勝るばかりに言ってはいけない最後の言葉をついに発してしまった。「Kカーベースのまやかし商法だ」と。

先生本音を言ってくれてありがとう。「K-car」とは1970年代後半、日本でも発売前から相当話題になったクライスラーの戦略車種である。「K」は開発コードの「Kプラットフォーム」を指している。実際に発売された車種の名は「プリムス・リライアント」と兄弟車種「ダッジ・エアリーズ」である。それぞれヴォラーレ/アスペンに取って代わるクライスラーの「コンパクト」カテゴリーの主力車種として登場した。モデルイヤーとしては1981年~1989年。2.2リッター、直4エンジンを横置きに搭載するFFモデルである。スタイルは面白くも何ともない平凡な四角いセダン。2ドアもワゴンもある。なぜこんなクルマがそれ程の注目を集めたかと言えば、当時、倒産寸前だったクライスラーの経営状況と、それを救った伝説的なカリスマ経営者リー・アイアコッカの活躍が重なるからである。

リー・アイアコッカはフォード・マスタングの生みの親として広く知られている。その他にも既存のコンポーネンツを利用してマーキュリー・クーガー、リンカーン・コンチネンタル・マークⅢ を仕立て上げ、人気車種へと育てることに成功した。両親はイタリアからアメリカに渡ってきた移民一世である。1902年(明治35年)、リー・アイアコッカの父は親類を頼り12歳の時に単身渡米した。苦労を重ねながら、その努力が実り幾つかの事業で成功を収めた。リー・アイアコッカが生まれたのは1924年大正13年)。リーハイ大学で管理工学と心理学を学び、その後奨学金を得てプリンストン大学へと進んだ。技術系の卵としてフォードに入社し、生産工程などで研修を受けていたが、自らの意志で営業畑への転身を図った。セールス部門で頭角を表し、マスタングの企画、リンカーン・マーキュリー部門の建て直しなどの実績が認められて1970年に46歳の若さで社長に就任した。安泰に見えたキャリアのはずだった。ところが、ヘンリー・フォード二世との確執の結果、解雇を言い渡され、長年勤め会社の発展に貢献してきたフォードを追われてしまった。1978年10月のことである。

その後のエピソードが面白い。雇用契約は3ヵ月残っていたため、フォードはアイアコッカのために新しいオフィスを用意してくれていた。しかし、そこは日本流に言えば雑居ビル的な倉庫の建物の中にある小さな事務所。机と電話が置かれているだけの寒々しい部屋だったようだ。アイアコッカは前日までフォード本社の社長室で執務を行っていた。ホテルのスイートルームよりも広く、専用のトイレが付き、白服の給仕係りを呼び出すこともできた。この落差がアイアコッカに屈辱感を抱かせ、ヘンリーフォード二世に対する復讐心に火をつけた。

フォード社長を辞職したアイアコッカには様々な産業界、また大学からも誘いが来た。そんな中、当時のクライスラーの会長が接触を図ってきた。社長として迎え入れるとのことだった。全権を掌握したいというアイアコッカの要望は聞き入れられ、後に会長に昇任するという条件でアイアコッカクライスラーに入社する。1978年11月のことである。

アイアコッカクライスラーの経営にショックを受けた。引き受けたことを後悔もした。クライスラー部分最適を絵に描いたような運営をしていたらしい。例えば、売れる売れないにかかわらず、生産部門の効率を維持するために、ひたすら製造し、常に8~10万台の完成車在庫が野ざらしで置かれていたそうだ。それをセールス部門が値引きしてディーラーに売り捌くというやり方が常態化していた。また、特にひどかったのは経理部門の管理で、入社して早々、手持ちの金が尽きてしまった。1973年の第一次オイルショックで、燃費の良い日本車の台頭の前にビッグ3全てが大きな打撃を受けた。特にクライスラーはその後も収支ギリギリの経営が続き、シェアも下降し続けてきた。

アイアコッカが経営を建て直そうと様々な策に着手した矢先の1979年初頭、第二次オイルショックが起こり再びアメリカ自動車業界を襲った。大型車は全く売れなくなり、日本車だけが躍進した。1980年の決算ではビッグ3のいずれもが赤字に陥った。クライスラーが最も深刻でこの年だけでも17億ドル(当時は1ドルが大体200円くらいだったから3,400億円)、累積赤字は30億ドル(6,000億円)に上り、クライスラーは倒産寸前まで来てしまった。またそういう噂がしきりに飛び交ったため、信用は地に落ちた。

アイアコッカは救済の手を差しのべてくれそうな出資者を探し求めてみたものの見つけることができず、フォルクスワーゲンに提携も申し入れたが、クライスラー側の経営状況が悪過ぎたためこれも頓挫した。破産申請し連邦破産法第11条を適用すべきだという意見が大多数だったが、直近の前例からこれでは生き残りはできないと判断した。万策尽きて、連邦政府に救済資金の提供を願い出るしかなかった。アメリカには「自由主義」「適者生存」の原理原則が社会の根底にある。アイアコッカ本人もこれを信奉していたが、やむ無き選択だった。案の定、議会や大手マスメディアから猛反発を受けたが、結果的に15億ドル(当時のレートで約3,000億円)を引き出すことに成功した。

こんな瀕死の状態が何年も続いていた間、日本車キラーとして開発が進められていたのがコードネーム「K-car」であった。元々の発想は、アイアコッカそしてアイアコッカと共にマスタングの企画段階から手を組んでいた開発技術者のハロルド・スパーリックがフォードで実現しようとしていたFFの小型車にある。アイアコッカはやはり時流を読むのが上手かった。1973年の第一次オイルショックで小型で燃費の良い日本車が売れていく様を見て進むべき方向を悟った。1974年、GMとフォードの販売台数はそれぞれ150万台、50万台も減少した。アイアコッカ達はアメリカ市場への小型車導入を説いたが、フォード二世会長は、利益にならない小型車を毛嫌いし開発のゴーサインは出なかった。それならばと、小型車需要の大きなヨーロッパにハロルド・スパーリックを送り込み、1976年にフィエスタの発売をもって開発は成功した。米国市場にもフィエスタの拡大版の導入をすべきと訴えたが、またしてもフォード二世会長は拒否した。そんな折り、アイアコッカの手足を切るような意図でもあったのか、フォード二世はスパーリックを解雇してしまった。スパーリックはクライスラーに移籍し、小型FF車開発の検討を始めた。果たしてK-carは大ヒットモデルとなり、クライスラーの経営危機を救うこととなった。ウィキペディアによると1981年~1989年までに200万台以上が売れたそうだ。

確か当時、日本の自動車雑誌にもK-carの試乗記が載っていたような気がする。アメリカ本国でのインプレッションだったのか、日本での話だったのか記憶が定かでない。当時、こんなもの誰が買うのかと中学生くらいだった自分でも感じていた。『世界の名車29 U.S. CARS』(いのうえ・こーいち保育社、昭和62=1987)という昔の本を引っ張り出してきてわかったことは、1987年に1988モデルとして「ダッジ・ミシガン」という名で入ってきていたことである。K-carは1985年型から若干のフェイスリフトを受けて、少し柔らかい顔付きに変わった。この本の記述から推理すると、この後期型をベースとしたミシガンがオリジナルのK-car最初の輸入車のようである。アニックという麻布自動車系列のディーラーから販売されていた。前年の1986年(昭和61年)から1989年(昭和64/平成元年)までクライスラーの日本における輸入総代理店になっていた。いのうえ・こーいちさんは「"ウサギ小屋"的国産車のアンチ・テーゼとして、ダッジ・ミシガンはちょっと気になるアメリカ車といえる。」と、インプレッションを締め括っている。が、298万円もしてガビ~ンである。確か本国でどんなにオプションを付けても8,000とか10,000ドルくらいじゃなかったか。当時のだいたい1ドル150円を掛け算して、えっっと...

「オリジナル」と書いたのは「Kプラットフォーム」から様々な派生ボディが作られたからだ。細かな車種体型を全部述べたところで、そもそも誰もこんなクルマに興味を持っていないのだから、主要なものだけを紹介したい。いつもどおり二玄社さんの『別冊GC 自動車アーカイブ Vol. 12 80年代のアメリカ車篇』を参考にさせていただこう。ホイールベースはそのままに若干ボディサイズを大きくしたのが「スーパーK」である。1982年型のクライスラー・ル・バロン/ダッジ400として登場した。1985年には「Hプラットフォーム」が登場した。「スーパーK」と同等サイズだが、エアロダイナミクスのデザインが採り入れられた流麗なボディをまとっていた。クライスラー・ル・バロンGTSという4ドアながらスポーティーな味付けのセダンと、その兄弟車であるダッジ・ランサーである。「スーパーK」の更に上級版である「Eプラットフォーム」が1983年に登場し、モデルとしては、クライスラー・Eクラス/クライスラー・ニューヨーカー/ダッジ600となった。当然「スーパーK」よりも長いホイールベースと全長を持つ。私から見ても、Eクラスは400とニューヨーカーとの間に挟まれた中途半端な感じのするモデルで1984年型をもって廃止され、プリムス・キャラベルがその地位を引き継いだ。その他のモデルは1988年型まで続いた。これを引き継いだのが「Cプラットフォーム」である。1988年型~1993年型のクライスラー・ニューヨーカー/ダッジダイナスティに採用されていた。

しかし、派生プラットフォームの中で最も成功を収めたのはミニバンだろう。1983年に登場したダッジ・キャラバンとプリムス・ボイジャーは世界の自動車史に残る偉業と言っても過言ではない。これも、元々、リー・アイアコッカとハロルド・スパーリックがフォードで温めていたアイデアだ。発売初期には20万台、その後は年間40~50万台売れるオバケ商品となった。あれれ、ずいぶんあっさりとしてる。次行ってみよう。

私が「K-carに咲いた一輪の花」としたいのはコンバーチブルである。1970年代、ビッグ3のラインナップからコンバーチブルが途絶えてしまった。最後まで残ったのは1976年型のキャデラック・エルドラドである。なんてカッコいいクルマなんだろう。それはともかく、リー・アイアコッカによれば、特に政府の安全規制などにより禁止されたわけではないそうでだ(そのような動きはあったとのこと)。コンバーチブルが廃れていく原因を作ったのはエアコンとカーステレオの普及らしい。クライスラーの再建にも目処が付いた1982年、実験的に1台をコンバーチブルに改装し、自身が乗って街へ繰り出したところ、大きな反響を得られたため生産が決定したとされている。

『 The Great American CONVERTIBLE  BY THE AUTO EDITORS OF CONSUMER GUIDE』(Beekman House、1991)によると、アイアコッカの内容には誤りがあるようだ。実際には1982年モデルを1981年に売り出すにあたり、夏のセールスを盛り上げるために1981年の春にはコンバーチブルが発表されていた。前述の「スーパーK」であるクライスラー・ル・バロンとダッジ400の2ドアクーペをオープンモデルに仕立てたものである。初年度(1982モデル)はそれぞれ約3,000台、5,500 台が生産された。1983年型には「Town & Country」というトリムパッケージがル・バロンに追加された。木目調のデカールと木を模したモールがボディサイド全面に貼られている。元々は1941年型クライスラーのワゴンに設定されていたモデルで、1946年には2ドアコンバーチブルにも採用された。当時は本物の木材が使われていた。あまり近代のコンバーチブルにはそぐわなかったようで、1986モデルを最後にこのパッケージは廃止されてしまった。個人的には欲しくて堪らないモデルだ。

1987年モデルで、クーペのスタイリングが一変した。ロングノーズが強調された流れるようなデザインとなり、格納式のヘッドライトも優雅さの演出に一役買った。このモデルイヤーからダッジブランドのコンバーチブルは廃止され、クライスラーに一本化された。

因みに、初期を除き、クライスラーコンバーチブルは自社生産品である。大まかな生産台数は、'82年が両ブランド合わせて8,500台、'83年が14,800台、'84年が27,200台、'85年が38,000台、'86年が36,200台、'87年はクライスラーだけとなり8,000台に落ちたが、翌'88年が41,300台、'89年が52,300台、'90年が46,000台である。

なぜ、私はこんな駄物セダンに萌えてしまうのか。今回のネタの記述は一冊の本に依るところが大きい。それはリー・アイアコッカの自叙伝『アイアコッカ わが闘魂の経営』(リー・アイアコッカ著、徳岡孝夫訳、ダイヤモンド社、1985)である。全世界700万部のベストセラーとなった。出典がわからなくなってしまって申し訳ない。確かに続編で650万と書かれていたから、信憑性のある数字である。若い方には馴染みがなくて当然の人物だ。今で言えばGAFAの創設者/経営者、ちょっと前ならばGEの元CEOジャック・ウェルチIBMの元CEO時代のルイス・ガースナー、日本で言えば本田宗一郎盛田昭夫級の名経営者である。人に「人生の一冊」があるならば、私にとってはこの本がそれにあたる。

 私は学校生活に全く興味がなく、中学3年の夏休みまで高校への進学は全く考えていなかった。中学を卒業したら自動車整備の仕事をするつもりでいた。唯一、進学と言えるものとして自動車整備士の専門学校には入りたかった。しかし調べてみると、自動車整備士の専門学校の入学資格を得るには高校卒業が条件であることを知り、仕方なく一校だけ受験し、私立の男子高校へ進学したのである。学校が所在する県の偏差値ランキング表で、表のスケールが違うんじゃないかと思うくらいダントツのビリだったことを覚えている。1,100人も入学して卒業するのは850人。世間の話では、一般的に一人や二人が学校をやめるなんて言い出すと学年中で大騒ぎになると聞いたことがある。私の母校では3年間の内に250人が退学していった。アメリカ製造業のレイオフかっつーの。教室には『ホリデーオート』『ヤングオート』(『チャンプロード』もあったかな?)が転がっていて、私は時々、アメ車乗りの先輩からもらった『 Hot Rod Magazine』や『 Car Craft』を学校に持っていっては、極太タイヤを車体内に押し込むモディファイ方法を見せてやり仲間を驚かせた。そんな流れで段々とアメリ自動車産業の本も読むようになり、マスタングの生みの親として知られていたアイアコッカの本を手に取ることになった。

世の中には「マーケティング」という職業があることを生まれて初めて知った。幼い頃からずっと消費する側であれこれ楽しむことばかりを考えていた自分が生産する側の仕事に憧れた瞬間だった。その世界に近づくためには学問が必要であることを考え、大学を目指したのである。大学に行ったからといって、自動的に良いことが起きるわけではない。人それぞれに考えはあるだろう。しかし、私にとって生きる世界が広がったことは確かだ。アイアコッカの強引なやり口に対して批判があることも知っている。この自叙伝はアイアコッカの視点で書かれているから良いことだけなのも知れない。それでもなお、アイアコッカの良し悪しはともかく、この本は「人生の一冊」なのである。

嫌々入学した高校であったが、3年間本当に楽しかった。地元では相当悪いやつだったはずのクラスメートも学校では皆仲がよかった。先日、わが母校は今どうなっているんだろうと興味が湧き、面白半分で検索してみた。さすがに私のいた頃の偏差値ではないだろう。そもそも今の時代にそんなレベルの高校は無いだろうと考えた。母校の名前を入力すると関連ワードが。

「バカ」「不良」という文字が自動的にポップアップしてくる学校とはいったいどんなところだ。そして「enter」を押すと...名前も場所も存在自体が消えていた。無かったことにしたかったようである。