付加価値のない自動車会

~副題 クルマだらけの間違いづくし~

ダットサン1号くん、君がヒヨっ子だったなんて。

前回、1930年代のアメリカ車の話をした。牧野克彦さんという方が著した「自動車産業の興亡」(日刊自動車新聞社、2003年)によると、T型フォードが1912年から急に売れ始め、1919年(大正8年)にはフォードだけでも80万台、1924年(ひぇ~まだ大正13年!)には同じく140万台も売り上げている。世界恐慌が起きる1929年には既にアメリカ国内の自動車需要は500万台を越えているので腰を抜かした。

その頃の日本はどうだったのだろうか。もっぱらの移動手段は徒歩だった。東海道五十三次のあちこちで宿場町が栄え、豊臣秀吉織田信長のわらじをふところに入れて温めていたのである。と、あまりふざけていると歴史家と自動車マニアの両方から怒られてしまうのでこれはおしまい。

「日本の自動車産業は戦後から」と私の頭の中には刷り込まれていて、なんとなく、「終戦後、余った軍需用の部品を何かに転用しようとオートバイや自動車作りを始めた」という勝手な思い込みがある。部分的には当たっているのかも知れない。ともかく1955年に当時の通産省から発表された「国民車構想」を受けて各自動車メーカーから大衆車が発売される頃にようやく日本の自動車産業が産声を上げたかのようだ。

しかしそこには衝撃の事実が。何が知りたくてこんな本を買ったのか全く思い出せない。10年くらい前に「苦難の歴史 国産車づくりへの挑戦」(桂木洋二さん著、グランプリ出版、2008年)を買った。私が持っている他の本の背表紙を眺めてみたが、何の脈略もない突然変異本である。戦前の日本車に全く興味は無いし、せいぜい子供の頃にトミカダンディのダットサン1号を見て、「何だこれ?チキチキバンバン?」と思った程度である。

アニメファンが手塚治虫先生とか「ときわ荘」をすっ飛ばして「のらくろ上等兵」や「凸凹黒兵衛(本当は右から書くんだけどね)」に行くだろうか。ゲームマニアがインベーダーゲームをすっ飛ばして花札に行くだろうか。私は16馬力のスバル360をすっ飛ばし、観音開きクラウンを越えて自動車ブラックホールの彼方へ。

1902年(明治35年)、初めて日本人が自動車を輸入したそうだ。吉田真太郎というその人物は「オートモビル商会」を立ち上げている。1907年(明治40年)には「国産吉田式自動車」を作ったんだって。あれれ?みんな興味ないか。時を同じくして、後の大倉財閥二代目かつ「ホテルオークラ」の設立者である大倉喜七郎さんが大変なクルママニアだったらしく、1907年(明治40年)に15,300cc(飛行機のエンジンってこと?)のフィアット・レーシングカーでイギリスの国際レースに出場し2位入賞。130~160km/hくらい出てたらしいよ。ほら、これで少なくとも富裕層の方はご興味持たれたでしょう。富裕層の方はこんなブログ読まない?なるほど。

そんな感じで本は進み、真ん中くらいでようやく東京洲崎(すさき、現在の江東区東陽町)で行われたレースに、アート商会の「カーチス号」に助手として乗った本田宗一郎さんがご登場。これは1925年(大正14年)の話。ほら、もう関係無いとは言わせない。何々、これも排気量が8,000cc超えてるし、飛行機かドラッグレースみたいなマフラーだから自然と共に生きてきた日本人にはアレかなぁ。そうか。

多摩川スピードウェイとか日産コンツェルンとか豊田自動織機が出てくる頃にはもう最終章。この他にも1931年(昭和6年)に作られた国産FF車「ローランド号」なんてのが出てきてビックリします。これを読むと、戦前のかなり前から日本には自動車技術が蓄積されていたんですね。これに加えて、戦後、職を失った飛行機屋さんが自動車産業に入ってくるわけだから自動車大国になってしまうわけか。

「高速機関工業」う~ん、何という甘美な響きなんだ。今は誰が商標権持ってるんだ。よしこのブランドを買って、名前入りの車検証入れとか、作業ツナギとか、ナンバープレートの枠とか作ってバンバン儲けるぞ。あの雑誌のように。ワッハッハ。