付加価値のない自動車会

~副題 クルマだらけの間違いづくし~

ロケットのようなテールフィン、ロケットペンシルのような新車開発

あらゆる年代のアメリカ車の中でも圧倒的な人気を誇るのが1950年代のいわゆる「ゴールデンエイジ」に登場したテールフィンのクルマくん達ではないだろうか。1948年式のキャディラックのおしりに付いた可愛いお魚ちゃん、今、目の前にそれに近い年式の「Coupe de Ville Convertible」のミニカーを眺めながら書いているのだが、それがどんどんでかくなり、最後は大トリを努める小林幸子になっていったのである。(「天高く聳え立つ」を上手に表現しようとした結果これになった。羽根の向きがなんか違う)

だが、ここで話したいのはそんなことではない。問題は「どんどんでかくなっていったと」いう部分。エアロパーツをくっ付けたのとはわけが違う。鉄板が毎年変わっているのだ。

「Tri-Chevy」と呼ばれる1955年式、1956年式、1957年式はアメリカ車好きから見ればはっきりと違うデザインだし、’58年式、’59年式、’60年式のインパラも全然違うし、’59年と’60年のキャディラックも似ているようできちんと見分けが付く形である。その後も約10年間くらい、年式によって毎年違うスタイリングを見せている。これをどうやって成立させていたのかというのが本日無責任に投げかけたい疑問。

前職でマーケティングの側面から自動車会社さんと関わらせていただいた。だいたい発売の2年くらい前には1/1のクレイモデルが出来上がっていたことを覚えている。おそらく全体の開発方向性の議論やエンジニアリングの分野となると一般に言われるように4年くらい前から準備を始めるのだろう。(もっと前なのかな?)

自動車製造とは直接関係ないが、今は生産装置に関連する会社で働いている。当時の販売台数を考えると、こんだけ量が出るものに対して1年前に生産ラインの準備が始まるのでは遅すぎるだろうし、材料の調達から、パイロット生産ラインの設置場所の確保、旧型から新型への切り替えタイミングなど、どのようにやっていたのか不思議でたまらん。いったい1ディビジョンだけでも何チームの企画部門、設計開発部門、生産技術部門、マーティング部門、宣伝部門、営業部門が同時に動いていたのだろうか。

こんな時は本棚に行ってみよう。長田 滋さんの「日本車躍進の軌跡 自動車王国アメリカにおけるクルマの潮流」(三樹書房、2006年)は戦後から今に続くアメリカ車のデザイントレンドが網羅されていてとても面白い本。でも残念ながら、当時の新車開発体制は分からなかった。生産技術の本には書いてないだろうなぁ。「トヨタ式」とか「カイゼン」とか「リーン生産方式」とか無駄取りの話か。こっちは真逆だからな。

よおし、秘伝のアイアコッカ伝記本出しちゃおう。でもこれ読んだら第二弾「トーキング・ストレート」も読まなきゃなんないしなぁ。この時間から2冊で900ページか。どうしようかなぁ。やろうかなぁ。やめとこうかなぁ。眠い。誰か手っ取り早く教えてくんないかなぁ...