付加価値のない自動車会

~副題 クルマだらけの間違いづくし~

本田宗一郎の手

2015年11月、東急線多摩川駅前の田園調布せせらぎ公園で「多摩川の歴史遺産 モータースポーツ発祥の地 多摩川スピードウェイ・回顧展」が開かれた。素晴らしいイベントで何時間も居座り展示物を見て回った。屋外には1936年式のオオタ車が展示されており、「昭和初期の名車の復元 オオタ OC型・1936年式・フェートン」というレストアの模様を紹介した小冊子が500円で特別配布されていて迷わず買った。

多摩川スピードウェイの大きなエピソードの一つに本田宗一郎とハママツ号がある。他のクルマと接触したはずみで宙を舞うシーンを皆さんもご存知のことだろう。これは1936年に開催された「第1回全日本自動車競争大会」でのひとこま。

今日は本田宗一郎について書こうと思う。しかし重い。う~ん、これは相当重いテーマだ。熱烈なホンダファンでもない私ごときが書いてよいものか結構悩んだ。しかし、戦前の日本の自動車史を面白がっている身として、本田技研工業設立以前の本田宗一郎を追いかけてみたくなった。ホンダの公式サイトにも「語り継ぎたいこと  ~チャレンジの50年~」というページがあり、その中でも詳しく語られている。しかし、日本のモータースポーツの発祥について触れられているものの、ストーリーは本田宗一郎の周辺に限られている感じが否めない。若き日の本田宗一郎の時代にどのようなレースが行われていたのかを全体的に捉えながら本田宗一郎について考えてみたら面白いのではないだろうか。

「熱烈なファンではない」と言っても、それは市販車の話。例えば「タイプR」とかNSXなどに興味が無いというだけである。晩年のお父さん、お母さんはホンダ車ばかり乗っていたし、現在、私自身が乗っているのもホンダ車。13年も所有していて自分でボンネットを開けたのは数回のみ。昨年、ウォッシャー液補充のためにボンネットを開けてみたら「VTEC」と書かれていてビックリした。「こんな廉価版にも付いてたのか?」と言うくらいに興味が無くてホンダの社員さんごめんなさい。しかしレースとなると話は別だ。未だにもっとも偉大なGPライダーはフレディ・スペンサーとNS500で間違いない。F1復帰の噂が出てきた頃、ヨーロッパと日本のF2でタイトルを獲り、いよいよF1かと期待した。確か雑誌『 AUTO SPORTS』が月2回刊行されるようになり、スピリット201ホンダとステファン・ヨハンソンの記事をくまなく読んだ覚えがある。やがてケケ・ロズベルグの手で初優勝し喜びは爆発した。時を同じくしてアイルトン・セナ・ダ・シルバ(当時はいちいちそんな風に書かれていた)が英国F3選手権で破竹の勢いを見せており、すごい新人がいるもんだと驚いた。まだ当時は白黒の小さい記事だった。佐藤琢磨ばりに20戦中12勝! 順番逆だけど。

地元の図書館に行って本田宗一郎に関する本をいくつか借りてきた。本当はこんなことは言いたくない。今まで読んでなかったから。正直者がバカを見る時代に私は偉いのである。アート商会での丁稚奉公の話もレーシングカーの製作の話も当然読むことができた。しかしその反面レース出場についてはどれにもあまり詳しく触れられていない。中にはカーチス号とハママツ号がごちゃ混ぜに語られていたりして、なかなか事実をつかむことができない。このままでは埒が明かないので、思いきって税込み4,180円もする『日本の自動車レース史 多摩川スピードウェイを中心として 大正4年(1915年)― 昭和25年(1950年)』(三樹書房、2017)を購入した。杉浦孝彦さんというトヨタ博物館の元館長の方が著した本である。それはそれは出費に見合う素晴らしい本だった。日本の戦前のレースについてこれ程詳しく書かれたものは無いのではなかろうか。当時活躍された方々のご子孫への取材や、それらの方達から提供された貴重な資料に基づいて書かれている。当時の記録や記事によって一致しない情報が見られるから、複数のソースを照らし合わせながら自動車レースの開催時期や順序、内容などが検証されているのである。自動車マニアには絶対に読んでいただきたい一冊だ。

これを読んでみて自分の無知を恥じた。今までの認識が覆されることがいくつもあった。まず「多摩川スピードウェイの開設が日本のレースの幕開けとなった」という私の思い込みは間違い。多摩川スピードウェイは1936年(昭和11年)に建設された。しかしここに至るまでに約10回の自動車レース(初期を除き興行としても成立している)が行われていたのである。大きな転機はその14年前に遡る。1922年(大正11年)日系移民でありシアトルで自動車販売・修理業を営んでいた藤本軍次という人物が、排日運動の高まりなどの影響を受け日本に帰国した。同年、彼は「日本自動車競争倶楽部(NARC=Nippon Auto Racing Clubかな?)」をエンジニア仲間らと立ち上げた。報知新聞社の後援も受けて同11月に「第1回自動車大競争」の開催にこぎつける。場所は洲先(すさき)埋立地だという。

洲先は現在の東京都江東区東陽一丁目辺りで、沿線で表すと東京メトロ東西線木場駅東陽町駅との間くらいに位置する。『別冊宝島2506号 江戸大古地図』(菅野俊輔監修、宝島社、2017)に掲載されている1850年頃(嘉永3年頃と言われてもイメージが湧かん)の地図を見ると、現在の永代通りの南側すなわち東京湾側数百メートル先には海が迫っている。あーあ、とうとうこんな本まで出てきてしまったか。洲先には1888年明治21年)ある経緯により根津から移転してきた大きな遊郭があった。レースが開催されたのは遊郭に近い現在の東陽一丁目付近だったのか、もしくはもっと東側だったのか。それから数年後に開催されたレースの場所が「砂町」と記録されているものもある。もう少し時代を降ると、現在の江東運転免許試験場の西向に洲崎球場というプロ野球の興行試合が行われていたスタジアムが開設されている。この球場ができる前の空き地を使っていたとは考えられないだろうか。

その後も1925年(大正14年)まで、年に2~3回のペースで場所を変えてレースが行われている。立川飛行場、鶴見の埋立地、代々木練兵場、また大阪の城東練兵場や名古屋練兵場での開催記録もある。順序はこのとおりではない。本田宗一郎が奉公先のアート商会で社長の榊原郁三、その弟の榊原真一らと共に製作したカーチス号(初期の車体にはCURTISSと書かれている)の助手席に乗り優勝したレースは、1924年大正13年)に行われた鶴見の埋立地の大会だそうだ。当時はまだコースのコンディションが悪く、運営のノウハウが確立されていなかったためであろうか、参加者から不評を買ったようなことが書かれている。その後9年の休止期間を経た後、1934年(昭和9年)にレースは復活する。場所は月島埋立地。1マイル(1.6km)のオーバルコースで開催され、19台も出走したというから立派な規模でないか。

再び先の江戸時代の地図を見てみる。そこには石川島と佃島しか無く、「月島」という土地は1891年(明治24年)から埋め立てが始められて作られたようである。どこでレースが行われていたのだろうかと、またもやロマンを掻き立てられる。現在の通称「月島もんじゃストリート」は昭和初期には既に住宅と商店が建ち並ぶ密集地。相当賑わいのあったここではレースができるはずが無い。ある開催記録には「月島4号埋立地」と記されている。これは1929年(昭和4年)に埋め立て工事が完了した現在の晴海で、晴海トリトンスクエアのある辺りをレーシングカーが爆走していたに違いない。ネットで当時の地形の模型を見ることができた。どこからも橋がかかっていない。水運が発達していた日本だから、参加者(車)も観客にとっても特に問題にならなかったか。この大会にもアート商会のカーチス号が登場。全参加車中最速を誇り二つのレースで優勝を果たしている。平均ラップタイムは100km/hを超えた。この時、本田宗一郎は既に独立を果たしている。師匠の活躍に鼻高々だったことだろう。

パーマネントコースが渇望され、藤本軍次は動く。1936年、報知新聞社と共に日本スピードウェイ協会を設立し、東急電鉄の協力や政府の承認も取りつけて多摩川スピードウェイが開設された。同年6月、「第1回全日本自動車競争大会」が開かれ、35台ものレース車が集まった。サーキット側が公表しているグランドスタンドの収容人数は3万人。当日の写真を見るとスタンドは人で埋まっているので3万人が足を運んだということになっているのだろう。余興を除くと5クラスに分けられてレースが行われた。主力は欧米のマシン。この中に「國産小型レース」もあり、7台が10周を競った。本大会の大きなトピックとなったのがオオタ・レーサーの大活躍。規模の小さい(「町工場」という表現も聞かれる)オオタが新興財閥の日産コンツェルンダットサンに圧勝。国産車により30周で争われる「商工大臣カップ」にも優勝し、クラス上位車によるメインイベントの混走レースでも4位に入賞。100周も走った。この結果に観戦していた日産コンツェルン総帥の鮎川義介が大激怒したというエピソードは有名。「貴様ら、次負けたら割腹しろ!」くらいのことは言ったんじゃないのかなというのは私の空想。この時のオオタ・レーサーのスタイリングは美しすぎる。ボディの一部に英語で書かれた「BABY BULLET」がこれまたお洒落だ。

同じ年の10月、多摩川では2回目となる「秋季自動車競争大会」が開催された。この大会で日産のダットサン号は雪辱を果たす。しかし残念なことに前回の覇者オオタは練習中に事故を起こし、ドライバーの怪我とマシンのダメージから出走を取り止めてしまう。したがって直接対決は実現しなかった。翌年5月に行われた「第3回全日本自動車競争大会」(多摩川通算3回目)およびその翌年4月の「第4回全日本自動車競争大会」(多摩川4回目)には、今度は日産が軍用トラックの生産に注力するために不参加となる。それでもなお、第2回でダットサンが記録した平均時速は、その後の大会のオオタ・レーサーに破られることはなかったから、日産も面目を保つことができたと言ってもよいだろう。

 オオタとダットサンの陰に隠れながらハネダ・レーサー「ミゼット・オブ・ドリーム(Midget of Dream)」と名付けられた2サイクル500ccのFFレーサーも出走している。これは以前「戦前のハーレーワークスライダー 川真田和汪」で書いた同氏の純国産レーシングマシンである。嬉しいことに『日本の自動車レース史』から川真田和汪がどのようにFFを設計したかについてのヒントも得ることができた。なんとコードを手に入れて乗り回していたとのことである。実物を範としてFF車を開発していたのだろう。ハネダ・レーサーは「秋季自動車競争大会」の「グッドリッチカップ」15周で優勝している。

「この頃のレシプロエンジンの動弁機構はサイドバルブしかないのだろう」という私の思い込みも吹っ飛ばされた。SV→OHV→OHC→DOHCが正常進化というのは一般車への普及の順序だけを指しているようだ。オオタ・レーサーは水冷だし直列4気筒だし、もうツインキャブになっている。サイドバルブ748ccで23馬力。一方、ダットサンのレーサーには2種類あって、市販ベースの「NL-76」はサイドバルブ722cc、遠心式スーパーチャージャー付きで22馬力、本格レーサーの「NL-75」はなんとDOHC747cc、これにルーツ式スーパーチャージャーが組み合わされている。馬力は不明。3ベアリング化もされている。ハネダ・レーサーは自社で開発した小型船舶用の水冷2気筒のツーストローク。オオタ・レーサーは多摩川での大会を重ねるごとに空気抵抗の軽減を試みたのだろうか。スタイルはウェッジシェイプを帯びてくるようになる。みんなそれぞれスタリングが違っていて独自のカッコ良さがある。あー、外観だけのハリボテのレプリカでもいいから、オオタ・レーサーの初期型とDOHCダットサン、国産FFレーシングカーのハネダの3台が並んで飾られているシーンが見たい。

川真田和汪が出てきたついでにオートバイの話をすると、『日本の自動車レース史』には戦前のオートバイ市場とレースに関するページもある。これによると、クルマよりも遥か前にオートバイのレースは人気を得ていたとのことである。1926年(大正15年)には既に1万台近くの市場規模があった。全国各地にクラブが結成され昭和初期までにオートバイレースの全盛期を迎えていたという。1930年(昭和5年)には多田健蔵(多摩川スピードウェイの自動車レースにも出ている)がマン島TTレースに出場し、入賞も果たしている。だから「日本のバイクレースは浅間から始まった」という私の認識も間違っていた。

多摩川スピードウェイは戦争と共に消え去ってしまった」のかと思っていたら、これも不正解でガックシというか、そうでなくてヨカッタというか、1949年(昭和24年)に「全日本モーターサイクル選手権大会」が催され3万人の観客を動員したそうである。スナップ写真を見ると、人の隙間が無いくらい観客でスタンドが埋まっている。以前、鈴鹿サーキットでの「第1回日本グランプリ」の写真を見て、この時代になんでこんなに自動車レースに人が集まってんだろうと不思議に感じたものだ。2輪も4輪も既にレースという興行が日本人の中に根付いていたのだろう。また、結構日本人ってオーバルトラックが好きなんじゃんとも思った。日本のレース文化はヨーロッパから入ってきたというようなことを言っている人でもいたのだろうか。オーバルアメリカ人しかやらないなんてのは嘘だった。多摩川のバイクレースでのコーナーリング中のショットが掲載されていた。おそらくコーナーへ進入していく様子かも知れない。アメリカのダートトラッカーのシーンと重なって見え、なんだか嬉しくなってしまった。

今日は本田宗一郎について書くと言ってしまったものの、いつまで経っても本田宗一郎が出てこねぇぞ。このまま逃げ切れるものならば...  本には、1965年(昭和40年)に撮影された「日本自動車競争倶楽部(NARC)」第43回総会記念写真がある。60歳の頃の本田宗一郎も集合写真の中に写っている。アート商会の社長、榊原郁三の横に並んでいる。いつまで仲の良い師弟関係であったことが窺える。榊原郁三はアート商会を興す以前、伊賀男爵(伊賀氏広)の伊賀飛行機研究所でエンジニアとして修行を積んでいた。その時の弟弟子がオオタの太田祐雄である。1956年(昭和31年)に他界しており、ここには写っていない。息子でオオタ・レーサーのドライバーだった太田祐一と同じく息子でメカニックを勤めた太田祐茂がいる。榊原郁三が可愛がっていた本田宗一郎とも交流があったことだろうし、レース場に行けば内輪の仲間だったはずだ。倶楽部創設者の藤本軍次はもちろんのこと、あのマン島TTレーサーの多田健蔵も写っている。とにかく本田宗一郎はこういう時代の一人なのである。

多摩川スピードウェイの頃には純国産レーサーもかなりの実力を付けていたものの、この時代のレースの中心となるのは外国製のマシンだった。ブガッティ、ベントレーメルセデス、キャデラック、ハドソン、ピアース・アロー、フォード、クライスラーダッジなど、あらゆる高性能車が走っていた。きっと本田宗一郎は世界トップレベルのマシンの実力を知っていたに違いない。マン島にしてもF1にしても「無謀な挑戦」と謳われているような気がするが、本田宗一郎はきちんとベンチマークが出来ていたのではないかというのが私の仮説である。自社の技術力と有能な若手社員をもって5年もやらせれば世界グランプリでもF1でも勝てると思っていたに違いない。

 さて、冒頭に出てきた宙を舞うハママツ号。あれはいったいどんなマシンだったのか。本によってはフォードV8と書かれている。なるほど、既にフラットヘッドV8が1932年型から積まれていたし、この時の大会に出場していた他のフォードはV8搭載車だったのかも知れない。しかし、ここでも本田宗一郎の他人とは異なる気質を垣間見ることができる。『日本の自動車レース史』には1962年(昭和37年)の本田宗一郎談が掲載されており、氏がハママツ号について回想している。「当時フォードのV8が大流行していたが、それを使うのではシャクだから、みんなの嫌うフォード・フォアを改造することにした。バルブが焼き付かないようベンザを切って銅系統のメタルを溶接したり、スーパー・チャージャーをつけたり、多摩川のコースは左回りだから、エンジンを10度傾けて重心を左にもっていったり秘術を尽した。」と語っている。ということで4気筒のモデルBのようである。勝てそうな手法で勝ったとしても、面白くもなんともない人なのだろう。

 昨年末に発刊されたムック本『RACERS』を買った。Volume 54は「NRの衝撃」、Volume 55は「NRの冒険」でNR500の挑戦が詳細に綴られている。その中の片山敬済(外足荷重なんてくそくらえ)のインタビュー記事に本田宗一郎が登場する。NR500のデビュー戦である'79年のイギリスGPでのこと。視察に来ていた本田宗一郎がチーフメカニックの杉原真一さんを労いに訪ねた。本田宗一郎が手を差し出し握手を求めてきた。杉原さんは握り返そうとするが、自分の手がオイルまみれであることに気付き躊躇してしまう。本文を引用させてもらうと、「で、それを見た宗一郎さんは『汚れた手なんて気にするな!』って言って、『しっかりいいマシンに仕上げてくれよ』って杉原の手を握ったんだ」~中略~『男の手が油汚れになっているのは、男の勲章だ』って。すごいよ。」と片山敬済も男惚れしている。

私は10年以上前、当時勤めていた会社で本田技研工業さんとお仕事をさせていただく機会を得た。ある日の打ち合わせに和光だったか栃木だったか忘れてしまったが研究所の方が同席されていた。本田宗一郎の引退後であるものの、直に触れたことのある最後の世代だという。その方が本田宗一郎について語ってくれた。手がものすごく分厚くて、工具などの金属によって傷だらけだったそうだ。まさに職工さんの手だったと教えてくれた。

「ホンダのチャレンジスピリットが芽生えてきたのは、海外のレースへの挑戦がきっかけだ」と今までずっと思い込んでいた。その理由は、ホンダについて語られる時、「産声を上げたばかりの企業が世界に挑んだ」とか「二輪のメーカーが無謀にもF1に挑戦」というような表現がしばしば使われ、私はそれに触れてきたからだと感じている。確かに「企業」としての本田技研工業の歴史を語るならば全く正しいのかも知れない。マン島TT、世界GP、F1への挑戦には、本田技研としての大義名分があり、それはそれで理解できる。けれども本田宗一郎という人はもっと純粋に、戦争で中断を余儀なくされてしまったレース活動を再開させたくてうずうずしていたのではないかと思う。「発明家」「経営者」である前に「スピードショップのオヤジ」であったのだから。

今ホンダはF1で上昇気流に乗り始めた。セナ・プロ時代のような黄金期が再び訪れることを期待している。耕運機や原チャリも作っている大衆車メーカーが高級車のメーカーを追い回してくれる姿を見たい。そして目的を達成したら、また何かおバカなチャレンジを世界最高峰の舞台でやってくれないだろうか。そう投げかけていながらアイデアが思い付かない。例えば、天下のホンダが全チーム中最低の予算でどれだけの成績が出せるかなんてのはどうだろうか。黄金期でなくても常勝軍団でなくても構わない。勝つことを至上命題とするのではなく、勝たなくても人を喜ばせるチャレンジでもよいのではないか。佐藤琢磨スーパーアグリアロンソオーバーテイクして6位に入賞した時の感動を今も忘れていない。一年に一度か二度、トップチームの1台を引きずり下ろすシーンが見られればファンは歓喜するものである。

いつの日か「ホンダイズム」のルーツをたどり、多摩川スピードウェイ以前のレースを含めたゆかりの地を歴史ウォーキングしてみよう。もう何も残っていないから、ビル街の空を仰ぎ見、思いにふけていたらほぼ不審者だ。それでも私は、市長の「じぇじぇ...じぇんトルマン、スタート・ユア・エンジン」をやってみせるぞ。 

 

トウキョウ・モーターショー・カー・オブ・ザ・イヤーズ・オブ・ザ・セブンティーズ(長過ぎ)

最近面白いクルマ雑誌(ムック本)が発売されている。それは『 K MAGAZINE』『 E MAGAZINE』『 V MAGAZINE』の3冊だ。それぞれ軽自動車、EV、ヴィンテージカーがテーマになっている。どの出版社から発売されているのか気になって見たところ、それぞれが別の会社から出ていた。3冊を同じフォーマットでシリーズ化して見せているのがCCCカーライフラボという会社である。とても面白い企画だと思う。『K』と『E』を毎号買っている。『V』の創刊号の表紙に往年の名車が載っていたため興味が湧かなかった。2号目の表紙を飾るのはマツダRX500で、巻頭特集は「世界が誇る名ヴィンテージ こんな日本車を知っているか?」と題してマツダRX500童夢P-2、日産MID4-Ⅱ を取り上げていた。これも未だ買っていない。

それとは別に、二玄社さんの『別冊CG 自動車アーカイブ』シリーズを買い集めていたら、いつの間にか『自動車アーカイブEX 日本のショーカー』も揃えていた。全部で4刊発行されている(2006、2007)。イタリアンスーパーカーにも負けないくらい美しいスタイルを持ったマツダRX500トヨタEX-7、日産126X、いすゞ・ベレットMX1600などが気になり、久しぶりに『 ② 1970~1979 東京モーターショー』を手に取った。するとそこはカッコいいクルマの宝庫だった。RX500やEX-7だけじゃない。ショーの目玉からは外れていても、すんごくカッコいいクルマがこんなにも沢山あったのかと改めて驚かされた。大勢の方に知ってもらいたいのである。

なお、いつもながら写真も無く、文字だらけの殺風景なページで申し訳ない。日本各地の「ふるさと文庫」のようなブログを目指してるとこうなっちゃんだなぁ。コンセプトが良くないのか。ということで、紹介する各車にはモーターショーの回、開催年、そして車名をセットにして掲載した。纏めてコピペしてネットで調べてみてね。車種だけだと全然違うクルマが出てきてしまうかも。

 

1970年 第17回 東京モーターショー スバル バギー エル ドミンゴ

Subarris Kustoms

スバル・サンバーのシャシーFRPのボディを被せたサンドバギー。同年4月、ダイハツからフェロー・バギーが発売されているので当時の時流に乗ったようだ。フェロー・バギーと異なるのは、こちらはまるで遊園地のレール・クラシックカーのような出で立ちであったということ。2つのバリエーションが展示された。実車のオーナーさんやマニアの方が見たら「全然違うだろ」と怒るかもしれないが、MG-TDっぽい感じの「スポーツ」とフォード・モデルTがカスタマイズされたような「クラシック」がある。特に「クラシック」の方が面白い。黒ベースにラメが入ったような塗装のボディカラー。クロームパーツは金メッキ。ウインドウポストの両脇には真鍮製のランタンまで付けられている。全体的なプロポーションはジョージ・バリスが活躍していた頃のearly hot rod のショーカー風味である。

 

1970年 第17回 東京モーターショー スズキ フロンテ71 SSSR

コルシカ島のコーナーから横っ飛びして出てきそうな軽

ドレスアップパーツを沢山付けてやる気満々のフロンテ。縦に桟の入ったライトカバーは三菱コルト・ギャランGS風。フロントバンパーの下には左右に分かれたフロントフィンが、リアのエンジンフード上にはウイングが奢られている。バンパーにはラバーのカバー、フロントフードにはストラップ、リアウインドウにはキックルーバー(本の解説は「ベネシャンブラインド」= venetian blindと呼んでいる)が付く。それらのパーツは全て黒で、オレンジボディのアクセントとなりスポーツムードを高めている。どこまで頭文字を並べんだというくらいの名前の末尾に付く「R」 はラジアルとのこと。サービスエリアで見かけたら、モータリーゼーション幕開けのノリで「おお!おたくもラジアルですか!」なんてお互いに声を掛け合ってみよう。

 

 1971年 第18回 東京モーターショー マツダRX510

オロチが恐縮する大先輩

サバンナをベースにカスタマイズされたショーカー。全体のプロポーションはサバンナのそれと分かりつつ、先ず誰もが注目するのは延長されたフロントノーズ。桟の向きは異なるが1976-1977年型オールズモビル・カトラス442のようなグリルに、アルファロメオモントリオールのようなセミリトラクタブルライト。半開きの目が不気味な迫力を醸し出す。リアはどちらかと言えばファミリア・プレスト・ロータリークーペ風の丸目4灯テール。アイアンバンパーが無い分スッキリしている。パテ埋め風オーバーフェンダーが覆うのは、ブリヂストンのホワイトレター。写真に目を凝らすと250/50VR13と書かれているようだ。この時代にもうこんな扁平率の低いストリートタイヤがあったとは驚きだ。右ハンドルなのに当時許されていなかったドアミラー(砲弾型)が採用されている。「オオトカゲ」をイメージした真緑のボディはなかなかグロテスク。けれども妖艶な雰囲気をぷんぷん匂わす色気のあるクルマだ。

 

 1972年 第19回 東京モーターショー 三菱 ギャランGTO R73-X

ボンドに乗せたいヨーロピアンマッスルカー

GTO MRをベースに、先のマツダRX510 同様ノーズが延長され彫りの深い顔付きに変わっている。ボンネット上の左側にはオフセットされたパワーバルジ。ダックテール後端に付けられたリアスポイラーは可動式なんだとか。下に降りていくと角形デュアルのテールパイプが顔を除かせている。足元を見ると、ホワイトレターのタイヤがワイヤースポークホイールに履かされていて、それを叩き出し風なのかパテ埋め風なのかわからないが結構大きく張り出したオーバーフェンダーが覆っている。このクルマにはリアビューミラーは備わっていない。実は『日本のショーカー』には前方斜め上から撮影された写真と、後方から撮られた写真しか載っておらず、どんなお顔になったのか窺うことができない。ネットで調べてみたら前方からの写真も沢山あった。今でも三菱自動車が保管していて時々イベントで披露されるようだ。ギャランオーナーさん達の間では伝説的なモデルなのかも知れない。一見するとアメリカンマッスル色を濃くしたものかと思っていたところ、前から見るとヨーロッパ調の雰囲気で市販のGTOとは全く趣が異なる。'70年代のアストンマーチンDBSやV8、スイスのモンテヴェルディのようなヨーロッパのスポーツカーを思い起こしてしまった。

 

1972年 第19回 東京モーターショー スバル レオーネ4WD スポーツアバウト

私をスキーに連れてってあげるまでに15年もかかってしまった

同じ年に発売された「4WD エステートバン」とは全然違う雰囲気である。同じ緑でも市販車は深緑、こちらは抹茶色だ。鉄製に見えるバンパーも同じく抹茶色にペイントされている。顔はクーペ1400の角形2灯。現代のものとはちょっと形が異なるけれどもルーフレールが備わる。タイヤはホワイトレター。ヤッケを着た東北電力のおじさん達のことを全く考えていないシティボーイに生まれ変わってしまった。ネーミングだってそのまま行けるぞ。

 

1973年 第20回 東京モーターショー 三菱 ランサー レーブ

週末は俺のクルーザーで気が置けない仲間と

「Rêve」と書く。美容室でこういう名前があったような気がする。フランス語で「夢」の意味なんだとか。このクルマはランサーのバン。ランサーのバンで何を夢見ろって言うのか。屋根を見るとちょうど後部座席の位置くらいから一段高くなっている。屋根が一段高くなる例は他にも幾つかあるだろう。しかしこの屋根はひと味もふた味も違う。建て増しされた部分のデザインがモーターボート、おっと失礼、私がこう呼ぶと安っぽくなるのでクルーザーとしよう。そのキャビンを模したデザインとなっているのである。クルマの屋根にモーターボートの乗るところがくっ付いちゃった感じ。高さは約15cm。突起の頭上部分はキャンバスのオープントップとなっている。次に室内に目を向ける。リヤシートを倒すと完全フラットの就寝スペースが出来上がる。荷室部分のサイドウインドウにはカーテンが、リヤハッチガラスの内側にはブラインドが備わる。マイルドにアゲた車高にゴツゴツしたオフロードタイヤはホワイトレターで、これをバナナスポークのブラックホイールに履く。ミラーは砲弾型。わざわざGSRのエンジンと5MTに載せ換えられている。10年くらい前に八重洲出版さんから『 STREET VAN & WAGON 国産箱的荷室付旧型車雑誌』というムック本が4~5冊刊行された。Vol. 2にこのクルマが特集されている。はっきりとは書かれていないが、おそらく同社の『 driver』誌が当時取材した記事がベースとなっており、カラーページで様々な角度から見ることができる。トヨタさん、日産さん、プロボックス/サクシードやNV150ADでこういうのを作ってくれないかなぁ。「道具」に少しだけ遊びゴコロを加えたやつが出て欲しい。過剰な提案は要りません。価格を抑えてください。「プアマンズ・クルーザー」で悪かったな。こっちにはライフスタイルはなんてものは無い。あるのは現実の「ライフ」だけなんだから。

 

1973年 第20回 東京モーターショー スバル レオーネ ハードトップ クラシック カスタム

イタリアンマフィアの手下が降りてきそうなクルマ

まったく自分をアメリカ車とでも勘違いしちゃったのだろうか。どうしちゃったの?と言いたいくらいバタ臭いカッコよさである。「The」を付けたくなる真四角のメッキフロントグリルに、5マイルバンパーとまではいかないが厚みのあるフロントバンパーが前にせり出す。ピカピカクロームのプレーンなホイールキャップ、右ハンドルなのにメッキのドアミラーが付いている。しかし、このクルマの肝の部分はフォーマルなブラックボディに黒のレザートップだろう。真っ白な内装を見て思ったのは1977に追加投入された「グランダム」のこと。カタログには「ホワイティーカラーリングインテリア」と書かれていた。今まで「グランダム」がレオーネの中で一番良いと思っていたが、このブラックのハードトップも相当いいぞ。

 

1975年 第21回 東京モーターショー トヨタ マルチパーパス ワゴンMP-1

 FFさえあれば、あんたが一等賞だったはず

これも凄いクルマだ。まるで現代のミニバンそのもののプロポーションに腰を抜かすことだろう。パールホワイトに包まれた大柄なボディはクラウンのペリメーターフレームに載せられているとのこと。現代のミニバンと比較するとリアのオーバーハングが長く見える。初代セリカXX風の顔がとってもスポーティー。これが当時のトヨタ・スポーティー顔のデザインアイデンティティだったのかも知れない。エンケイディッシュ風のホイールにドアミラー、フロントウインドウが小ぶりなラップアラウンドウになっているのも見過ごせない。左側のみにスライドドアが付く。ありがたいことにトヨタの公式サイトに「東京モーターショーに出展したトヨタ車の歴史」というページが設けられており、このクルマを様々な角度から拝むことができる。完成度の高さに驚かされるはずだ。しかし当時の日本人は「低く」「速く」「パーソナル」なクルマを求めていたように思える。こういうクルマが広く世間に評価されるまでそれから20年もかかってしまった。

 

1975年 第21回 東京モーターショー スバル レオーネ SEEC-T 1600 ツインキャブスポーツ

もしも『トランザム7000』の舞台がニューイングランド地方だったら

この年から東京モーターショーは2年毎の開催となった。前回ブラックのレオーネにやられてしまったが、今回のパールホワイトもカッコ良過ぎる。フロントグリルにはクリアーのレーシングジャケットが付き、バンパー下には結構大きなエアダムが延ばされている。ネットで探しても真横からの写真が見つからないため、よくわからないがカンパニョーロ風のアルミホイールがホワイトレタータイヤと組み合わされている。ミラーは砲弾型のドアミラー。このクルマのデザイン上のウリはTバールーフサリー・フィールドを横に乗せたバート・レイノルズが横を向いてニコッとしそうだ。ベアー(トラッカーのCB無線用語で「ハイウェイパトロール」の意味)に追われても山道に逃げ込めばこっちの勝ち。相手がV8ポリスパッケージだろうと「バカヤロー、こっちはアルペンラリーで散々鍛えてんだよ」とばかりに逃げ切ってみせるだろう。

 

1977年 第22回 東京モーターショー トヨタ 空港リムジン

和製600プルマン

5代目MS80系クラウンワゴンのストレッチ版。プロポーションがすごくナチュラルに見えるのは6枚ドアだからだろうか。3人がけ3列シートの9人乗りである。リアのオーバーハングが長いから荷室容量もたっぷり。全幅が1,690mmなので長く見えるが実際には5,560mm。普段使いも何とかできそうなサイズ。グリルは営業車と同じ丸目の4灯。しかし、バンパーにはロイヤルサルーンにしか付かないオーバーライダー(鰹節)があった。奇をてらったところがなく、直ぐにでも市販できそうな感じだ。特装車として本当に発売されていたならば、今頃数台のサバイバーを目にすることができただろう。

 

1977年 第22回 東京モーターショー 三菱ギャラン Λ Tトップ

これに乗ればチャーリーズエンジェル達とお近づきになれるかも

こんなカッコいいクルマがなぜかあまりネット検索できないのが不思議である。前年11月に発売された市販車がベースで、それ程いじられていない。ウエストラインまではワインレッドに見える深い赤。ピラー部から上は真っ白。よく解説に「ロールバー風に見えるクォーターピラーが...」と書かれているので、『モーターファン別冊 日本の傑作車シリーズ第13弾 初代ギャランΣ/Λのすべて』(三栄書房、2018)を読み返してみたら、本当にデザイナーがロールバーに見えるよう意図していたことがわかった。ダッジ・チャレンジャー/プリムス・サッポロとして販売されることも決まっていたそうだ。ショーカーの目玉はTトップだからサイドウインドウを降ろすと余計に「ロールバー感」が増す。白いサイドプロテクションモール、一部がボディと同色に塗られたフィン状のアルミホイールにホワイトレタータイヤ、白い内装と、これだけなのに物凄く色気のあるスペシャリティカーに仕上がってしまうのは元々のデザインが素晴らしいから。これは市販されなかった。しかし残念がるのはまだ早い。1979年に追加された2600がある。純正カラーが既にツートーン。Tバーこそないものの、ロールバー風のクォーターピラーガーニッシュがカッコいい。ここにはウインカーまで付いている。なんというお洒落さんだ。

 

1979年 第23回 東京モーターショー トヨタ ファミリーワゴン

走れ!グンゼのプラモ!

見た目は普通のライトエース。ではなぜこれを取り上げたかというとカラースキームにやられたから。グンゼ産業から出ていた「VANシリーズ」のキャラバンやハイエースのようだ。'70年代のバニングなどで見かけた「黄・橙・黒」のレーシングストライプが走る。そもそも「黄・赤・黒」「黄・赤・橙」などのストライプカラーはどこから来たのだろうか。そういえばロングビーチグランプリ(正式には「冠スポンサー名 + Grand Prix of Long Beach」)の前座としてやっていたセリカ/スープラワンメイクレースのマシンカラーもこんな色使いだったと思う。アメリカ人がツーリングカーに施す好みの色なのかな。バンパー下には黄色いフォグランプ、ルーフ後方にはルーフエンドスポイラーが付いている。このファミリーワゴンも前述の『 STREET VAN & WAGON』のVol. 4に当時の『driver』誌のインプレッション記事が掲載されているので外観も内装もじっくりと観察できる。この本の別ページには、同年のモーターショーに日産から出品されていたスカイライン(ジャパン)のワゴンの写真もある。こちらも似た色使いのカラーストライプが施されている。両車ともにカラーストライプ以外にはアルミホイール(純正サイズ)を履いている程度のモディファイに留まっている。だからこそ白やシルバーの商用バンを手軽に、そして安価にカスタムする際の手本として大いに参考になるのである。

 

この他にも、ホールデンWB顔(余計にわからないか)のトヨタ、顔がプリムス・ロードランナー・スーパーバードでリアがポルシェ924風のトヨタロータス風というかポルシェ914風というのかわからないがライトウェイトのミッドシップ日産、シトロエントヨタアストンマーチン・ラゴンダ風の日産など、この10年間に出品されたショーカーの中に紹介したいものがまだまだ沢山ある。別の機会に皆さんに知ってもらいたいし、我が国の自動車産業のレベルの高さを考えてもらいたい。

1960年代と1980年代のショーカーも見てみたが1970年代のショーカーに対するものと同じ気持ちが持てなかった。何が違うのだろうか。1950~1960年代のモーターショーは市販車と市販を前提としたモデルのお披露目の場だったような印象を受ける。反対に1980年代は技術が大きく進歩し、景気も上を向いていく時代だったからか予算をかけたコンセプトカーが目立つ。中間の'70年代はモーターショーに相応しいドリームカーと、市販車をベースに今で言えば「東京オートサロン」的なノリのカスタムカーが共存していて、私にとっては身近なカッコよさを感じてしまうクルマが多いのである。

今日は12台のショーカーをピックアップしてみた。この中から栄冠の「トウキョウ・モーターショー・カー・オブ・ザ・イヤーズ・オブ・ザ・セブンティーズ」に輝くのは果たしてどのクルマか。パンパカパーン、マツダRX510に決定!   審査員長の龍虎先生に訊いてみましょう。先生いかがでしたか。「ハイ、爬虫類をモチーフにしたところがインパクトがあってカッコよかったと思います。」 優勝車にはトロフィーとペアウォッチ、そしてレプリカを作ってもらえる権利が授与されます。

光岡自動車さん、作ってくれないかなぁ。いや、でもベース車の確保が難しそうだもんね。光岡さんにはマツダRX500みたいなものを作っていただいて、オートサロンに出ている自動車整備の専門学校の学生諸君に立ち上がってもらいたい。腕利きの旧車会のお父さん達はどうだろうか。実車がダメならばプラモでも十分に嬉しい。これを書いている時にGTO R73-Xのプラモを製作していた方のブログを見つけた。雑誌『 model cars』さん、企画してください。EX-7とかRX500などは禁止というルールで。

 

 

申し訳ないが、あまりお役に立てなさそうなK-car情報

会社の同僚にアメ車好きがいる。彼は1988年生まれだから今年32歳を迎える。20代の頃には2005年型の「マスタング」(彼曰く「昔の人は『ムスタング』って呼んでたらしいですね」だって)に乗っていて、かなりのカスタムをしていたそうだ。結婚し子供ができた今ではダッジ・マグナムが愛車となっている。V6、2.7リッターをベースにフロントグリルをクライスラー300のものに換装し、エアサスを入れ大径ホイールを履かせている。彼が生まれた頃のクライスラーのラインナップの話をしてあげたことがあるが、あまりピンと来なかったようだ。物心が付いた頃には「LXプラットフォーム」のクライスラー300シリーズ、ダッジ・チャージャー、ダッジ・マグナムというカッコよくて走りも良いモデルが発売されていたから、「FF車しかなかった」と聞いてもイメージが湧かなくて当然だろう。

1990年のクライスラーの日本市場向けフルラインナップカタログをとっておいた。当時のモーターショーでもらったものだろうか。クライスラー ジャパン セールスから販売されていたのは、クライスラー・インペリアル、ニューヨーカー・ランドウ、ル・バロン・コンバーチブル、プレミアES、アクレイム、そして「ジープ」ブランドでは、チェロキーとラングラーだった。主観的に見れば、どれも欲しいものばかりだが、客観的に見たらこれはないだろう。酷過ぎる。当時のクルマのプロ達はジープシリーズ以外、本当に売れると思っていたのか。当時の日本総代理店に勤めていた人達を集めて座談会を開きたいくらいだ。「いやいや、保守的なユーザーさんがまだまだ沢山いて、結構売れたんだよねぇ」となるのか、あるいは「売れな過ぎて、ずっと釣り堀にいました。おかげさまで今は太公望です」となるのか。30年経ったからといって、あやふやのままにしておいたら、みんなのためによくない。

実際のところ、ジープは別としてインペリアル/ニューヨーカーとル・バロン・コンバーチブルだけは時々見かけた記憶があるが、プレミアESとアクレイムを日本の路上で目にしたことがない。どれも今の日本で探そうとなると、イエティの探索なみになるから注意しなければいけない。

私は特にインペリアル/ニューヨーカー・ランドウが好きである。1988年から1993年まで販売されたニューヨーカーは全長4,920mm、全幅1,760mm(日本仕様)と手頃なサイズのボディなのに、隠しライト、ウォーターフォールグリル、切り立ったリアウインドウにランドウトップといった1970年代の高級車の手法が採り入れられ、角張っていて威厳に満ち溢れたスタイリングを持つクルマなのだ。1990年に追加されたインペリアルはより一層魅力的だ。ホイールベースが12.5cmも延ばされ全長は5,155mmとなった。日本に入ってきたニューヨーカー・ランドウには年代によって2種類のエンジンが積まれていたようだ。一つは三菱製のV6、3リッター、SOHC、もう一つがクライスラー製のV6、3.3リッター、SOHCである。どちらも三菱製と解説されていることがあるが、おそらく後者はクライスラーが開発したエンジンのようだ。これに関してもOHVとされている記事を見かけたことがある。カタログにはSOHCと記述されているので、これを信じることにしたい。

私は1989年まで販売されていた「Mボディ(FR、318cid ≒ 5.2リッター)」のフィフスアベニューには乗ったことがある。これも大好きな1台ではあるが、今だったら絶対にFFの1988~1993モデルを手に入れたい。日本で乗るにはジャストサイズの高級車ではないかと思うのである。エンジンも極度に大きくないから税金面でも有利だ。もう少しだけ年式を遡ると「クライスラー・リムジン」(1983~1986)というストレッチモデルもあったぞ。アメリカ本国だけでなく、ちゃんと麻布自動車から正規輸入車として取り扱われていた。ホイールベースは3,330mm、でも全長は5,350mmだから極端に長いクルマではない。全幅は1,740mm。輸入されていたのは跳ね上げ式の対面シートが備わった仕様で7人が乗れる。今だったらRV車として使いたい。エンジンは三菱製の直4、2.6リッター、SOHC。みんな大好き「G54B アストロン」のようだ。ダックスフンドのような格好で本当に「リムジン」に見えるクルマだが、車両重量は1,500kgと意外にも軽量。最高速は軽く100km/hは出るだろうから、これで十分だ。ウィキペディア(英語版)にも載っているモデルで、その情報によると1,500台も作られたんだって。

 とまあ、いつもながら乗ったこともないクルマを溺愛してしまっている。しかし、徳大寺先生は手厳しかった。『新・間違いだらけの外国車選び』(徳大寺有恒草思社、1992)の中でクライスラー・ニューヨーカーを取り上げ、「率直にいって、このクルマには見るべきものはなにもない」と雷を落としている。アメリカ車だって公平に見てくれていた先生でも、今回ばかりは大目に見てはくれなかった。やはり先生は本質を見抜いていた(まあ、ユーザー以外の誰もが知っていたことだが)。先生は正義感が勝るばかりに言ってはいけない最後の言葉をついに発してしまった。「Kカーベースのまやかし商法だ」と。

先生本音を言ってくれてありがとう。「K-car」とは1970年代後半、日本でも発売前から相当話題になったクライスラーの戦略車種である。「K」は開発コードの「Kプラットフォーム」を指している。実際に発売された車種の名は「プリムス・リライアント」と兄弟車種「ダッジ・エアリーズ」である。それぞれヴォラーレ/アスペンに取って代わるクライスラーの「コンパクト」カテゴリーの主力車種として登場した。モデルイヤーとしては1981年~1989年。2.2リッター、直4エンジンを横置きに搭載するFFモデルである。スタイルは面白くも何ともない平凡な四角いセダン。2ドアもワゴンもある。なぜこんなクルマがそれ程の注目を集めたかと言えば、当時、倒産寸前だったクライスラーの経営状況と、それを救った伝説的なカリスマ経営者リー・アイアコッカの活躍が重なるからである。

リー・アイアコッカはフォード・マスタングの生みの親として広く知られている。その他にも既存のコンポーネンツを利用してマーキュリー・クーガー、リンカーン・コンチネンタル・マークⅢ を仕立て上げ、人気車種へと育てることに成功した。両親はイタリアからアメリカに渡ってきた移民一世である。1902年(明治35年)、リー・アイアコッカの父は親類を頼り12歳の時に単身渡米した。苦労を重ねながら、その努力が実り幾つかの事業で成功を収めた。リー・アイアコッカが生まれたのは1924年大正13年)。リーハイ大学で管理工学と心理学を学び、その後奨学金を得てプリンストン大学へと進んだ。技術系の卵としてフォードに入社し、生産工程などで研修を受けていたが、自らの意志で営業畑への転身を図った。セールス部門で頭角を表し、マスタングの企画、リンカーン・マーキュリー部門の建て直しなどの実績が認められて1970年に46歳の若さで社長に就任した。安泰に見えたキャリアのはずだった。ところが、ヘンリー・フォード二世との確執の結果、解雇を言い渡され、長年勤め会社の発展に貢献してきたフォードを追われてしまった。1978年10月のことである。

その後のエピソードが面白い。雇用契約は3ヵ月残っていたため、フォードはアイアコッカのために新しいオフィスを用意してくれていた。しかし、そこは日本流に言えば雑居ビル的な倉庫の建物の中にある小さな事務所。机と電話が置かれているだけの寒々しい部屋だったようだ。アイアコッカは前日までフォード本社の社長室で執務を行っていた。ホテルのスイートルームよりも広く、専用のトイレが付き、白服の給仕係りを呼び出すこともできた。この落差がアイアコッカに屈辱感を抱かせ、ヘンリーフォード二世に対する復讐心に火をつけた。

フォード社長を辞職したアイアコッカには様々な産業界、また大学からも誘いが来た。そんな中、当時のクライスラーの会長が接触を図ってきた。社長として迎え入れるとのことだった。全権を掌握したいというアイアコッカの要望は聞き入れられ、後に会長に昇任するという条件でアイアコッカクライスラーに入社する。1978年11月のことである。

アイアコッカクライスラーの経営にショックを受けた。引き受けたことを後悔もした。クライスラー部分最適を絵に描いたような運営をしていたらしい。例えば、売れる売れないにかかわらず、生産部門の効率を維持するために、ひたすら製造し、常に8~10万台の完成車在庫が野ざらしで置かれていたそうだ。それをセールス部門が値引きしてディーラーに売り捌くというやり方が常態化していた。また、特にひどかったのは経理部門の管理で、入社して早々、手持ちの金が尽きてしまった。1973年の第一次オイルショックで、燃費の良い日本車の台頭の前にビッグ3全てが大きな打撃を受けた。特にクライスラーはその後も収支ギリギリの経営が続き、シェアも下降し続けてきた。

アイアコッカが経営を建て直そうと様々な策に着手した矢先の1979年初頭、第二次オイルショックが起こり再びアメリカ自動車業界を襲った。大型車は全く売れなくなり、日本車だけが躍進した。1980年の決算ではビッグ3のいずれもが赤字に陥った。クライスラーが最も深刻でこの年だけでも17億ドル(当時は1ドルが大体200円くらいだったから3,400億円)、累積赤字は30億ドル(6,000億円)に上り、クライスラーは倒産寸前まで来てしまった。またそういう噂がしきりに飛び交ったため、信用は地に落ちた。

アイアコッカは救済の手を差しのべてくれそうな出資者を探し求めてみたものの見つけることができず、フォルクスワーゲンに提携も申し入れたが、クライスラー側の経営状況が悪過ぎたためこれも頓挫した。破産申請し連邦破産法第11条を適用すべきだという意見が大多数だったが、直近の前例からこれでは生き残りはできないと判断した。万策尽きて、連邦政府に救済資金の提供を願い出るしかなかった。アメリカには「自由主義」「適者生存」の原理原則が社会の根底にある。アイアコッカ本人もこれを信奉していたが、やむ無き選択だった。案の定、議会や大手マスメディアから猛反発を受けたが、結果的に15億ドル(当時のレートで約3,000億円)を引き出すことに成功した。

こんな瀕死の状態が何年も続いていた間、日本車キラーとして開発が進められていたのがコードネーム「K-car」であった。元々の発想は、アイアコッカそしてアイアコッカと共にマスタングの企画段階から手を組んでいた開発技術者のハロルド・スパーリックがフォードで実現しようとしていたFFの小型車にある。アイアコッカはやはり時流を読むのが上手かった。1973年の第一次オイルショックで小型で燃費の良い日本車が売れていく様を見て進むべき方向を悟った。1974年、GMとフォードの販売台数はそれぞれ150万台、50万台も減少した。アイアコッカ達はアメリカ市場への小型車導入を説いたが、フォード二世会長は、利益にならない小型車を毛嫌いし開発のゴーサインは出なかった。それならばと、小型車需要の大きなヨーロッパにハロルド・スパーリックを送り込み、1976年にフィエスタの発売をもって開発は成功した。米国市場にもフィエスタの拡大版の導入をすべきと訴えたが、またしてもフォード二世会長は拒否した。そんな折り、アイアコッカの手足を切るような意図でもあったのか、フォード二世はスパーリックを解雇してしまった。スパーリックはクライスラーに移籍し、小型FF車開発の検討を始めた。果たしてK-carは大ヒットモデルとなり、クライスラーの経営危機を救うこととなった。ウィキペディアによると1981年~1989年までに200万台以上が売れたそうだ。

確か当時、日本の自動車雑誌にもK-carの試乗記が載っていたような気がする。アメリカ本国でのインプレッションだったのか、日本での話だったのか記憶が定かでない。当時、こんなもの誰が買うのかと中学生くらいだった自分でも感じていた。『世界の名車29 U.S. CARS』(いのうえ・こーいち保育社、昭和62=1987)という昔の本を引っ張り出してきてわかったことは、1987年に1988モデルとして「ダッジ・ミシガン」という名で入ってきていたことである。K-carは1985年型から若干のフェイスリフトを受けて、少し柔らかい顔付きに変わった。この本の記述から推理すると、この後期型をベースとしたミシガンがオリジナルのK-car最初の輸入車のようである。アニックという麻布自動車系列のディーラーから販売されていた。前年の1986年(昭和61年)から1989年(昭和64/平成元年)までクライスラーの日本における輸入総代理店になっていた。いのうえ・こーいちさんは「"ウサギ小屋"的国産車のアンチ・テーゼとして、ダッジ・ミシガンはちょっと気になるアメリカ車といえる。」と、インプレッションを締め括っている。が、298万円もしてガビ~ンである。確か本国でどんなにオプションを付けても8,000とか10,000ドルくらいじゃなかったか。当時のだいたい1ドル150円を掛け算して、えっっと...

「オリジナル」と書いたのは「Kプラットフォーム」から様々な派生ボディが作られたからだ。細かな車種体型を全部述べたところで、そもそも誰もこんなクルマに興味を持っていないのだから、主要なものだけを紹介したい。いつもどおり二玄社さんの『別冊GC 自動車アーカイブ Vol. 12 80年代のアメリカ車篇』を参考にさせていただこう。ホイールベースはそのままに若干ボディサイズを大きくしたのが「スーパーK」である。1982年型のクライスラー・ル・バロン/ダッジ400として登場した。1985年には「Hプラットフォーム」が登場した。「スーパーK」と同等サイズだが、エアロダイナミクスのデザインが採り入れられた流麗なボディをまとっていた。クライスラー・ル・バロンGTSという4ドアながらスポーティーな味付けのセダンと、その兄弟車であるダッジ・ランサーである。「スーパーK」の更に上級版である「Eプラットフォーム」が1983年に登場し、モデルとしては、クライスラー・Eクラス/クライスラー・ニューヨーカー/ダッジ600となった。当然「スーパーK」よりも長いホイールベースと全長を持つ。私から見ても、Eクラスは400とニューヨーカーとの間に挟まれた中途半端な感じのするモデルで1984年型をもって廃止され、プリムス・キャラベルがその地位を引き継いだ。その他のモデルは1988年型まで続いた。これを引き継いだのが「Cプラットフォーム」である。1988年型~1993年型のクライスラー・ニューヨーカー/ダッジダイナスティに採用されていた。

しかし、派生プラットフォームの中で最も成功を収めたのはミニバンだろう。1983年に登場したダッジ・キャラバンとプリムス・ボイジャーは世界の自動車史に残る偉業と言っても過言ではない。これも、元々、リー・アイアコッカとハロルド・スパーリックがフォードで温めていたアイデアだ。発売初期には20万台、その後は年間40~50万台売れるオバケ商品となった。あれれ、ずいぶんあっさりとしてる。次行ってみよう。

私が「K-carに咲いた一輪の花」としたいのはコンバーチブルである。1970年代、ビッグ3のラインナップからコンバーチブルが途絶えてしまった。最後まで残ったのは1976年型のキャデラック・エルドラドである。なんてカッコいいクルマなんだろう。それはともかく、リー・アイアコッカによれば、特に政府の安全規制などにより禁止されたわけではないそうでだ(そのような動きはあったとのこと)。コンバーチブルが廃れていく原因を作ったのはエアコンとカーステレオの普及らしい。クライスラーの再建にも目処が付いた1982年、実験的に1台をコンバーチブルに改装し、自身が乗って街へ繰り出したところ、大きな反響を得られたため生産が決定したとされている。

『 The Great American CONVERTIBLE  BY THE AUTO EDITORS OF CONSUMER GUIDE』(Beekman House、1991)によると、アイアコッカの内容には誤りがあるようだ。実際には1982年モデルを1981年に売り出すにあたり、夏のセールスを盛り上げるために1981年の春にはコンバーチブルが発表されていた。前述の「スーパーK」であるクライスラー・ル・バロンとダッジ400の2ドアクーペをオープンモデルに仕立てたものである。初年度(1982モデル)はそれぞれ約3,000台、5,500 台が生産された。1983年型には「Town & Country」というトリムパッケージがル・バロンに追加された。木目調のデカールと木を模したモールがボディサイド全面に貼られている。元々は1941年型クライスラーのワゴンに設定されていたモデルで、1946年には2ドアコンバーチブルにも採用された。当時は本物の木材が使われていた。あまり近代のコンバーチブルにはそぐわなかったようで、1986モデルを最後にこのパッケージは廃止されてしまった。個人的には欲しくて堪らないモデルだ。

1987年モデルで、クーペのスタイリングが一変した。ロングノーズが強調された流れるようなデザインとなり、格納式のヘッドライトも優雅さの演出に一役買った。このモデルイヤーからダッジブランドのコンバーチブルは廃止され、クライスラーに一本化された。

因みに、初期を除き、クライスラーコンバーチブルは自社生産品である。大まかな生産台数は、'82年が両ブランド合わせて8,500台、'83年が14,800台、'84年が27,200台、'85年が38,000台、'86年が36,200台、'87年はクライスラーだけとなり8,000台に落ちたが、翌'88年が41,300台、'89年が52,300台、'90年が46,000台である。

なぜ、私はこんな駄物セダンに萌えてしまうのか。今回のネタの記述は一冊の本に依るところが大きい。それはリー・アイアコッカの自叙伝『アイアコッカ わが闘魂の経営』(リー・アイアコッカ著、徳岡孝夫訳、ダイヤモンド社、1985)である。全世界700万部のベストセラーとなった。出典がわからなくなってしまって申し訳ない。確かに続編で650万と書かれていたから、信憑性のある数字である。若い方には馴染みがなくて当然の人物だ。今で言えばGAFAの創設者/経営者、ちょっと前ならばGEの元CEOジャック・ウェルチIBMの元CEO時代のルイス・ガースナー、日本で言えば本田宗一郎盛田昭夫級の名経営者である。人に「人生の一冊」があるならば、私にとってはこの本がそれにあたる。

 私は学校生活に全く興味がなく、中学3年の夏休みまで高校への進学は全く考えていなかった。中学を卒業したら自動車整備の仕事をするつもりでいた。唯一、進学と言えるものとして自動車整備士の専門学校には入りたかった。しかし調べてみると、自動車整備士の専門学校の入学資格を得るには高校卒業が条件であることを知り、仕方なく一校だけ受験し、私立の男子高校へ進学したのである。学校が所在する県の偏差値ランキング表で、表のスケールが違うんじゃないかと思うくらいダントツのビリだったことを覚えている。1,100人も入学して卒業するのは850人。世間の話では、一般的に一人や二人が学校をやめるなんて言い出すと学年中で大騒ぎになると聞いたことがある。私の母校では3年間の内に250人が退学していった。アメリカ製造業のレイオフかっつーの。教室には『ホリデーオート』『ヤングオート』(『チャンプロード』もあったかな?)が転がっていて、私は時々、アメ車乗りの先輩からもらった『 Hot Rod Magazine』や『 Car Craft』を学校に持っていっては、極太タイヤを車体内に押し込むモディファイ方法を見せてやり仲間を驚かせた。そんな流れで段々とアメリ自動車産業の本も読むようになり、マスタングの生みの親として知られていたアイアコッカの本を手に取ることになった。

世の中には「マーケティング」という職業があることを生まれて初めて知った。幼い頃からずっと消費する側であれこれ楽しむことばかりを考えていた自分が生産する側の仕事に憧れた瞬間だった。その世界に近づくためには学問が必要であることを考え、大学を目指したのである。大学に行ったからといって、自動的に良いことが起きるわけではない。人それぞれに考えはあるだろう。しかし、私にとって生きる世界が広がったことは確かだ。アイアコッカの強引なやり口に対して批判があることも知っている。この自叙伝はアイアコッカの視点で書かれているから良いことだけなのも知れない。それでもなお、アイアコッカの良し悪しはともかく、この本は「人生の一冊」なのである。

嫌々入学した高校であったが、3年間本当に楽しかった。地元では相当悪いやつだったはずのクラスメートも学校では皆仲がよかった。先日、わが母校は今どうなっているんだろうと興味が湧き、面白半分で検索してみた。さすがに私のいた頃の偏差値ではないだろう。そもそも今の時代にそんなレベルの高校は無いだろうと考えた。母校の名前を入力すると関連ワードが。

「バカ」「不良」という文字が自動的にポップアップしてくる学校とはいったいどんなところだ。そして「enter」を押すと...名前も場所も存在自体が消えていた。無かったことにしたかったようである。

 

 

クリント・イーストウッドが屋根にしがみ付きたくなるクルマたち

お正月と言えば映画だ。私はもうじき自分で面白いことを言ってはペロリと舌を出すおじさんの歳になるから、本来ならば『風と共に去りぬ』や『シェーン』『禁じられた遊び』など不朽の名作について語って然るべきだが、困ったことに幼少期の原体験がカーアクション映画だから、今もってなお、そんな映画の情報に響いてしまうである。

かなり前のことになるが、ブックオフで『CAR & MOVIE 爆走×激走×クラッシュ上等 カーアクション映画ぶっちぎり読本』(キネマ旬報社、2011)というムック本を見かけた。手に取ってみたところ、知っている映画が大半を占めていたし、1990年代以降の作品の紹介も多かったから、その時はあまり興味が湧かず棚に戻してしまった。今思えば惜しいことをしたものだと後悔する。

雑誌『A-cars』の2018年11月号にもカーアクション映画の特集が組まれた。「よしおか和『米車倶楽部』往年のアメリカ映画で往年のアメリカ車を愉しむ!」という題名の記事だった。執筆者は私と同じく1970年代のカーアクション映画を原体験としている人だからセレクトされた映画に大変共感した。その反面、少し若い世代の人が選ぶものの中にはしっくりこないものもあった。

私がよく参考にするのが『カーチェイス映画の文化論』(長谷川功一、リム出版新社、2006)だ。なぜカーチェイス映画というジャンルが生まれたのかを解き明かす論考が目的の本だから、考察対象の映画も1970年代~1980年代のものが中心となる。

上記の3冊を揃えておけばカーアクション映画に詳しくなれることは間違いない。正直に言って、リアルタイムで観ていないもの、タイトルすら知らなかったものも数多く含まれている。それらの中には『ブリット(Bullitt)』(1968)、『フレンチ・コネクション(French Connection)』(1971)、『バニシング・ポイント(Vanishing Point)』(1971)、『バニシング in 60(Gone in 60 seconds)』(1974)などとの関係や影響があるものも多いから、今更ながら一つづつ観てみようと思い立ち、近所のレンタルビデオ店で探してみることにした。

 

 『大列車強盗団(Robbery)』(1967)

『ブリット』の監督ピーター・イェーツがイギリス人であることは意外だった。ウィキペディアによると元々プロのレーシングドライバーだったそうだ。『ブリット』の前に公開されたイギリス映画である。冒頭にカーチェイスシーンが展開される。犯人グループのクルマをパトカーが追いかける。逃げるのはジャガー。お洒落な人は「ジャグワ」と呼んでたような気がしたから不安になって、ネットで調べたら正規に「ジャガー」と呼ばれていて安心した。イギリス車の知識が殆んど無いからよくわからないが「Mk1」もしくは「Mk2」というものらしい。そうか光岡のビュートがモデルにしているのはこれだったのか。後年のアメリカのカーアクション映画と比較すればカーチェイスシーンはやや控え目な印象を受ける。しかし、それでもロンドンの街中を舞台にシリアスなカーチェイスが見られるし、背景のクルマを含めて昔のイギリス車が見られるから、英国車好きには堪らないだろう。こんなカッコいいサルーンがあったのかと見とれる場面が目白押しだ。

カーチェイスとは別に面白い場面があった。犯行グループを執拗に追う刑事が現場検証に現れる。愛車はミニだ。驚いたことに3点式シートベルトを締めているのだ。一瞬、リメイク版ではないかと目を疑ってしまった。う~ん、何とも先進的だ。

 

『重犯罪特捜班/ザ・セブン・アップス(The Seven-Ups)』(1973)

本作の監督は、『ブリット』と『フレンチ・コネクション』の両方でプロデューサーを務めたフィリップ・ダントニである。ここでもリアリティにこだわったシリアスなカーチェイスを見ることができる。刑期7年以上の重犯罪を専門に捜査する刑事さんたちの話。まず車種チョイスが渋過ぎる。刑事役の主人公ロイ・シャイダーが駆るのはポンティアック・ベンチュラ(ヴェンチュラ/ヴェンテューラ)。たぶん1973年型かなぁ。悪党の一味が乗って逃げるポンティアック・グランヴィル(ボンネヴィルだったらごめんなさい)を追いかける。こちらもおそらく1973型ではないだろうか。こんな車種は、'70年代のアメリカ車のディープファンもしくはポンティアック専門のマニアしか判別できないであろう。早回しなどのギミックは当然排除されており、ニューヨークの街中を凄いスピードで駆け巡る。サンフランシスコと比べてより平坦だから、大袈裟なジャンプは無い代わりにありがちなスローモーションシーンも無く、その分余計にスピード感が出ている気がする。サスペンションが道路の起伏を拾い上下にフワフワと動く様子がリアルでカッコいい。ストーリーはなんか解りづらかった。数回観る必要があるかも知れない。「クルマを拝む」という目的で言えば、マフィアの幹部たちが葬式に集まるシーンがある。キャデラックやリンカーンなどの当時の最新のフルサイズ車が続々と登場し圧巻である。

 

『白熱(White Lightning)』(1973)

 バート・レイノルズ主演の作品。バート・レイノルズと言えば「トランザム7000(Smokey and the Bandit)」シリーズで見せるコメディタッチの演技のイメージが強いが、これは弟を殺した密造酒づくりの組織と悪徳保安官に対する復習劇だから内容はシリアスだ。舞台は南部の田舎町。カーチェイスの大半はダートで行われる。前述の『A-cars』のよしおか和さんの解説によれば、バート・レイノルズが駆るのは1971年型のフォードLTDとのこと。この頃の フォードは顔に凹凸があって非常にカッコいいのである。外見は何の変哲も無い4ドアセダン。色もブラウンで地味だ。なのにフロアシフトのマニュアルトランスミッションが奢られている。フルサイズボディをまるでフォード・エスコート(Mk2)かフィアット131アバルトラリーかのようにカウンターステアを決めてコーナーを駆け抜けていく。

 

『ピンク・キャデラック(Pink Cadillac)』(1989)

長年、この映画の存在は知っていたが、何かのロードムービーだと勝手に思い込んでいたため、カーアクション映画だとは気付かなかった。なぜならば、あの'50sカーでカーチェイスを繰り広げるとは夢にも思わなかったからだ。私の個人的な見所は1959年型のキャデラックが追っ手のクルマに体当たりしながら爆走するシーンではない。クリント・イーストウッドが扮するのは逃亡犯を捕らえて当局に引き渡す賞金稼ぎ。彼の仕事クルマが映画の前半に登場する。おそらく1974年型のプリムス・サテライトで、完全にポリスカーの払い下げである。運転席とリアシートとの間はケージで仕切られており、スポットライトも付いたままである。いかにもポリスカーを艶消しの黒で塗っただけの外装に、左のフロントフェンダーだけサフェーサー吹きのままにしてあるところが完璧である。このクルマは追跡中の犯人に逆に奪われてしまう。追いかけるクリント・イーストウッドは屋根に飛び乗り、必死にしがみつきながら窓の外から犯人の運転を妨害する。記憶違いかも知れないが、確か『ダーティーハリー(Dirty Harry)』シリーズのどこかでもこんなシーンがあったような気がしてならない。クリント・イーストウッドはこの時60歳近く。「まだこんなことやってんのか」と定番シーンに大爆笑した。

 

 『ブリット』が公開されてから半世紀が経つ。紹介する側も限られた誌面の中で、興行的な成功も加味してセレクトしなければならないから大変だろう。紹介されていないものも沢山ある。トラッカーの映画『コンボイ(Convoy)』(1978)にも一部に確か1970年代前半のシボレー・ノバがトラックに吹っ飛ばされるシーンがあったし、もうどんな色のどんなクルマでどんなカーチェイスが繰り広げられていたか全く覚えていないが、『フリービーとビーン大乱戦(Freebie And the Bean)』(1974)、『シカゴ・コネクション/夢みて走れ(Running Scared)』(1986)、『サンダーボルト(Thunderbolt and Lightfoot)』(1974)、『新バニシング in 60 スピードトラップ(Speedtrap)』(1977)、 『爆走キャノンボールCannonball)』(1976)など、もう一度観てみたい映画が山ほどある。チャールズ・ブロンソン主演の『マジェスティック(Mr. Majestyk)』(1974)やバート・レイノルズの『レンタ・コップ(Rent-A-Cop)』には、カーチェイスシーンがあったのか。確かめる必要がある。カーチェイスではないが『グレートスタントマン(Hooper)』(1978)もアメ車ファンには絶対に観てほしい一作である。

 

コブラCobra)』

なぜかカーアクション映画の紹介記事で割愛されてしまうのが不思議なほど、バリバリのカーアクションムービーだ。刑事役のシルベスター・スタローンが犯人追跡用に使うのは、ライセンスプレートから判断して1950年型のマーキュリーである。チョップドトップを持つボディ全体のカスタマイズは「Lead Sled」風なのに、タイヤだけBF Goodrichのホワイトレターでヤル気満々である。グリルはオリジナルが保たれている反面、ボンネット上にエアスクープがついている。当時、「Kustom」と「Hot Rod」が混在したようなこのスタイルに違和感を覚えた記憶があるが、今改めて見るとなかなかカッコいいと思うのであった。コブラが追うのは1976年型~1979年型、丸目2灯のダッジ・アスペン/プリムス・ヴォラーレである。どちらのブランドなのか確かめる間も無く、フロントグリルが破壊されてしまうから、もうどっちだろうと構いやしない。コブラの相棒のゴンザレス刑事が仕事で使っているのが、これまたダッジ・アスペン/プリムス・ヴォラーレ。こちらは1980年型の最終モデル。やまぶき色の角目2灯だから、そのまま輸入して乗りたいくらいだ。犯人グループに命を狙われている目撃者を郊外の安全な場所に護送するシーンではゴンザレス刑事の自前のクルマと思わしきビッグマスタングコンバーチブルが登場する。「マッハ1」ではない大人しい顔つきのマスタングが動画で見られるぞ。

 

『バニシング in TURBO(Grand Theft Auto)』(1977)

 本当は『バニシング in 60』を借りたかったのだがビデオ屋さんに置かれていなかった。ニコラス・ケイジの『60セカンズ(Gone in Sixty Seconds)』(2000)のオリジナル作品でもあるし、カーチェイス映画史に残る一本なのだからあってもよさそうなのだが取り扱いされていない。まあ、あるものから観ていこう。

こういう原題であるとは知らなかった。「grand theft auto」とは「車両泥棒」という意味である。変な語順の英語だ。気になり調べてみたところ、アメリカの司法当局が使う法律用語らしい。「grand theft, auto」とも書くとのこと。有罪になれば大きなペナルティが課せられる「grand theft=重大な盗み」の「クルマ」版という解釈でよさそうだ。主人公は、父親のクルマを盗んで逃避行する。追う方も次々とクルマを盗み追跡に加わる。そうしたアイデアが題名になっている。ドタバタコメディだ。ファンの方には失礼だが、ストーリーはあって無いようなものだった。また、早回しが多用されているからシリアス派の人には不向きな映画だ。反対に『ブルース・ブラザーズ(The Blues Brothers)』のような映画が好きな人だったら楽しめるかも知れない。この作品の良いところは、登場するクルマがバラエティに富んでいること。メーカー問わず様々なアメリカ車が登場するだけでなく、すぐにポンコツにされてしまい勿体ない話だが、フィアットX1/9やポルシェ・カレラ(「ナロー・ポルシェ」と呼ばれるやつかな?)の走る勇姿が見られる。背景のクルマや事故に巻き込まれてしまうクルマの中には当時の日本車が結構出てくる。B級コメディにもかかわらず、主題曲が70年代のR&Bっぽい感じで不釣り合いなほどカッコいい。後で調べたらピーター・アイヴァースという白人ミュージシャンだった。以前に思っていたよりも面白い映画という印象が残った。

 

大都市にある余程大きなレンタルビデオ屋さんにでも行かない限り、30~40年前のB級のカークション映画/コップアクション映画を見つけることができないであろう。ネットショップで売られているものもあるけれども、一本数千円から数万円も出して買ってはいられない。ブックオフなどの店で中古のVHSやDVDを地道に探すほかに手はない。そんなことを考えながら年末に掃除をしていたらVHSの保管箱から気になっていた映画が出てきた。

 

『ランナウェイ(Thunder & Lightning)』(1977)

うる覚えだった黒い「Tri-Chevy」の車種がわかったのが嬉しい。おじいさんたちが作る「純」な密造酒を配達するのがデビッド・キャラダインの役柄。愛車は1957年型のシボレーでトリムパッケージから判断して「ベルエア」だろう。ずっと210か150の2ドアポストセダンと思い込んでいたから意外だった。コメディ映画ではあるが、ストーリーはきちんとしている。舞台は南部の田舎町。しかも相当なディープサウスだ。1973年型のシボレー・カプリスなどが登場するから、時代設定は公開された当時なのだが、おじいさんたちが乗るのは1930年代のピックアップトラックだし、南部の古い文化が垣間見られるシーンが出てくるのでいつの時代の話なのかと錯覚してしまうのが面白い。カーチェイスシーンはなかなか迫力がある。但し、時々、早回しされている部分が気になる。また、スタジオで撮ったと思わしき運転シーンも出てくる。横を向いて会話をしながらハンドルを左右に揺すっている様子を見ていて、『ドリフ大爆笑』の「もしもこんなタクシーがあったら」を思い出してしまった。それでもなお、ベルエアがその巨体を大きくロールさせながら、パトカーとのスピード感あるカーチェイスを繰り広げる。ベルエアがアスファルト敷きの幹線道路の向こうからやってきて、未舗装の横道に入っていくシーンがある。ハードブレーキングでフロントタイヤに荷重をかけながらしっかりと曲がり、その後ドリフトさせてコーナーを曲がっていく。単に街の交差点に派手な逆ハンで飛び込んでくるのとは違い、本物っぽいテクニックが印象に残った。

 

世の中には映画に登場するクルマに魅了されてしまう人たちが沢山いる。そんなカーアクション映画フリークたちに向けて、映画のシーンをそのまま切り取ったようなライフスタイルの新提案がある。

まず、クリント・イーストウッドそっくりのマネキン人形を作ってもらおう。次に、クリント・イーストウッドを屋根にしがみ付かせて、そのままの格好で屋根にボルトで固定する。ベース車は汚くてベコベコになってしまった四角いセダンであれば何でもよい。アメリカ車の調達が難しければ日本車で代用しても構わない。

これは1970~1980年代にかけて見られた、「陸(おか)サーファー」と同じと思っていただきたい。かつて若者たちは、ルーフキャリアにサーフボードを積んで六本木や青山、原宿あたりをクルージングしていた。サーフボードをクリント・イーストウッドに代えるだけだから違和感はゼロだ。どんな日でも常にサイドウィンドウを下げたままにして、妨害するハリーの手を払いながら運転をしなければならないという面倒臭ささえクリアできれば、今はSNSの時代、これはインパクト大だぞ。そんな「陸(おか)ハリー」の波はもうそこまでやってきているのかも知れない。そうそう、走行中にハリーの体の一部(あるいはハリー全体)がすっ飛んでしまったら事件になってしまうので、そうならないようワイヤーツイスターを使ってしっかりと固定しよう。大人の嗜みを大切にしたいものだ。

 

 

 

1962年型キャデラックが登場する映画と言えば...

高校生になる息子が「『グリーン ブック』を観た」と言って帰ってきた。なかなかのセンスじゃないか。私が高校生の頃、こんな映画を観たくなるような感性を持ち合わせていただろうか。『グリーン ブック』と言えばキャデラックだ。コレクターでもマニアでもない私でも、一瞬にして1961年型か1962年型あたりのモデルであることは見分けられる。1961と1962の違いはテールランプを見ないと判別できない。1961はなぜか横型配列になり、翌年縦型に戻った。『グリーン ブック』に登場するのは1962年型だ。1963年型と1964年型も似ているのでよくわからん。私の大好きなカーアクション映画の一つ、ウォルター・ヒル監督の『 48時間(原題48 Hrs.)』に登場するボロボロのキャデラックは1964らしい。1965年型から1968年型までは丸目縦型4灯。全部カッコいい。1967と1968も同じく見える。1968からコンシールド・ワイパーになるので、私はそれで見分けている。きっとマニアの方や専門家はグリルの格子などで判別できるのだろう。

それはさておき、『グリーン ブック』のキャデラックを見て、ある映画を思い出した。しかし、それはカーアクション映画でもなければアメリカ映画でもない。フィンランドを代表する映画監督アキ・カウリスマキの作品である。映画に詳しい方ならば、この人物をご存知のはずだ。アキ・カウリスマキについて少し触れると、彼は1957年にヘルシンキの郊外の村で生まれた。16歳で映画に目覚め、20歳の時、先に映画を学んでいた兄に連れられて観た小津安次郎の『東京物語』(1953)に感化され映画を撮る決心をする。1983年に自身初の作品を発表。1986年にはカンヌ国際映画祭コンペ部門作品にノミネートされる。この頃には既に国際的な評価も高く、2002年に公開された『過去のない男』はカンヌ国際映画祭グランプリを受賞した。アメ車好きとフィンランド映画があまり結び付いてこないが、興味ある人は『アキ・カウリスマキ』(遠山純生編、エスクァイア  マガジン ジャパン、2003)を読んでね。

そもそも私自身アキ・カウリスマキを知っていたわけではない。皆さんはフィンランドと聞いて何を思い浮かべるだろうか。一般的にはサンタクロース、ムーミン、オーロラ、ノキアなどかも知れない。私にとってはケケ・ロズベルグだ。リアルタイムではないがヤーノ・サーリネン、そして私の時代ではミカ・サロ、ミカ・ハッキネン、キミ・ライッコネン(前の職場にいたフィンランド人の同僚がこのように発音してた)、最近ではミカ・カリオもいる。ラリードライバーとなると書ききれない。モータースポーツファンにとっては非常に興味深い国である。いつか「フライング・フィン」ゆかりの地を巡るフィンランド旅行をしてみたいという夢を描き始めフィンランドの文化についての本を読むようになった。このような過程でアキ・カウリスマキの映画と出会ったのである。

この監督の映画には時折ヘンなクルマが登場する。2002年の『過去のない男』には主人公のものではないが、おそらく1950年代のイギリス車が登場する(イギリス車ファンの皆さん、ごめんなさい。今度ちゃんと調べておきます)。また、2017年に公開された『希望のかなた』では主人公の愛車はなんとチェッカー・マラソンである。タクシーの払い下げではなく、個人オーナー向けのモデルで色は黒だ。私には年式までわからない。どちらの映画も時代設定は現代である。そして今回紹介したい同監督の作品『真夜中の虹』(1988年公開)で主人公が駆るのは白の1962年型キャデラックのコンバーチブルである。

ストーリーについては後述するとして、この頃のキャデラックについて考えたい。『トミカプレミアム』の1台にもなっている超有名な1959年型はキャデラック史上最大のテールフィンを備えていた。1960年型は前年モデルのデザインを踏襲。ややテールフィンが小ぶりとなりシンプルな印象を与えているが、興味の無い人からしたら見分けが付かないだろう。この2年前の1958年、長年GMのデザイン部門を率いてきた副社長のハーリー・アールが65歳の定年退職を迎えた。これらのモデルは数年前に開発を終えているはずだから、乱暴に言ってしまえばハーリー・アールのデザインということになる。ハーリー・アールがGMに招き入れ、育て上げたビル・ミッチェル(william L. Mitchell)が跡を継いだ。手持ちの本『 CARS OF THE 60s』(CONSUMER GUIDE、Beekman House、1979)によれば、1961年型はビル・ミッチェルのスタッフが手掛けた最初のモデルである。ビル・ミッチェルはクロームメッキの多用を好まなかったようだ。また、より輪郭のはっきりしたデザイン志向だった。1961年型から一部を除き「ラップアラウンドウインドウ」が廃された。こうしてかつてのキャデラックには無かったクリーンなスタイリングが実現した。1962年型は小変更に留まる。テールフィンは若干低められ、リアの灯火類が一つのハウジングに収められた。 

先日、お母さんに危うく捨てられそうになっていたアメリカ車の洋書を実家から救出した。改めて見ると1960年代のアメリカ車の本が非常に多いことに気づいた。どうやら若い頃は'60sのアメリカ車が最も好きだったようだ。とりわけこの時代のGM車が好きだったから、私のテイストはビル・ミッチェルのデザインだったということである。

話を映画に戻そう。『真夜中の虹』は同監督の「敗者3部作」と呼ばれている映画の内の一つらしい。1980年代のフィンランドに起きた農業社会から工業社会への急速な転換期に、発展から取り残された労働者階級を描いた作品群だ(前述の『アキ・カウリスマキ』)。主人公が働く炭鉱が閉鎖される。生きる希望を失った同僚(主人公よりもやや年配者)はピストル自殺する。その直前、前から欲しがっていたということで、主人公に愛車キャデラックのキーが渡される。キャデラックに乗って都市がある南へと向かうロードムービーである。主人公はすぐさま強盗に遭い一文無しに。不法の日雇い仕事にありつき、教会が運営する簡易宿泊所で夜を過ごす。日雇い仕事のオーナーは逮捕され食い扶持は途絶え、宿泊所からも追い出されてしまう。仕事は見つからない。そんな中、自分を襲った強盗を発見し、追い詰めた途端に駆けつけた警官に取り押さえられ、結果有罪判決が下され刑務所送りになる。監房仲間と脱獄することに成功。海外逃亡を図るために偽造パスポート屋を訪れる。その金を工面するために、偽造パスポート屋に銀行強盗をけしかけられる。といったように主人公を取り巻く事態は暗転するばかりである。色々と紆余曲折があるものの、始まりから終わりまで目的に向かって突っ走るのが1962年型のキャデラックなのである。

この映画には重要なシーンにもう1台アメリカ車が登場する。シルバーのダッジ・アスペンだ。モデルイヤー1976年から1979年の丸目2灯である。兄弟車のプリムス・ヴォラーレと見分けが付かない。グリルの真ん中に小さいワッペンが貼られているところを見るとダッジのようだ。劇中車はかなりやつれている。塗装は光沢を失い、足元からホイールキャップが取り外されている。黒の鉄ホイールが茶色くて汚ならしい。フロントグリル前に取り付けられた丸い巨大なドライビングランプがダサダサだ。銀行の前におもむろに停車すると、主人公と脱獄仲間は銀行に押し入る。少し間を置いて金を手にした二人が銀行から出てくる。クルマに乗り込みバックをしようとするが、異音を上げてバックギアに入ろうとしない。

ダッジ・アスペン/プリムス・ヴォラーレ(1976~1980)は欠陥車の本にしょっちゅう出てくる常連だ。それぞれのブランドで毎年20万~30万台生産していたお化けのようなダッジ・ダート/プリムス・ヴァリアントの後継車種である。ダート/ヴァリアントもアスペン/ヴォラーレの両世代ともカッコいい。どちらがより欲しいかと訊かれれば、アスペン/ヴォラーレと答えるだろう。特に最終年の角目2灯が好きだ。欠陥の内容について各本で語られているのは「錆びがひどかった」というもの。『LEMONS THE WORLD'S WORST CARS』(Timothy Jacobs、Smithmark Publishers、1991)が一番真面目に詳述している。おそらくメーカーのリコール歴に基いて書いてあるのだろう。不具合は、室内とトランクへの水漏れ問題から始まり、スターター、トランスミッション、ブレーキ、フロントサスのピボット、パワステ、触媒、電気系統、ホイールベアリングなどに及ぶ他、キャブのコンピューターエラー、エンジンストールの発生なども起きるクルマだったようだ。ボンネットのラッチの脱落で突然開いたりするなんてことも。『8時だョ!全員集合』の前半戦か。錆びについても具体的に書かれていた。直ぐにフロントフェンダーが錆びてしまいリコール対象となっていた。エアバッグなどのリコールならばわかるが、フロントフェンダーを交換してくれるとは驚いた。それでもこの兄弟ブランドはそれぞれ最盛期には30万台が生産された。最終年でさえも、プリムス10万台、ダッジ8万台も生産されていたからアメリカ人の国民車だったのだろう。

しかしなぜ、フィンランドを舞台にした映画でオールドキャディとダッジなのだろう。1980年台後半のフィンランドでは欧州車が一般的なはずである。実際、映画シーンの背景に欧州車が映っている。先の書籍『アキ・カウリスマキ』によれば監督はカーコレクターのようだが、さっと見るかぎりネットでその情報は出てこなかった。また、キャデラックは監督自身の持ち物とのこと。しかし、単に自分が好きな古いクルマを登場させたかったとは思い難い。何かの意味合い、メッセージが隠されているように思えてならない。当たり前かも知れないが、映画にはテーマがあるのだと言う。私は『東映まんがまつり』の『さるとびエッちゃん』からすぐに『ダーティーハリー』のようなものに行ってしまったクチだから映画のテーマなんてものを考えたことがなかった。「作者は何が言いたかったのか」と国語の授業で問われて、「知らねぇよ。作者に訊いてくれよ」などとほざいたところ先生にぶっとばされた過去がある。だが、そんな私でも映画『カーズ』の第一作を観たときに感じるものがあった。あの映画のテーマを私なりに解釈すると「前進」である。主人公のライトニング・マックイーンは前に進むことにしか関心がない。停滞したり後退することなどは許せないのだ。そんなマックイーンの親友となるメーターはバックが得意であるだけでなく、それを楽しんでいる。「ラジエーター・スプリングス」に迷い込み、そこに暮らす人と触れ合う内にマックイーンは時には立ち止まることも、後ろに戻ることも大切であることを学ぶのである。

『真夜中の虹』のテーマも「前進」ではないかと自分なりに解釈した。1962年型のキャデラックというのは世界一豊かな国の富の象徴であった。富の象徴であるならばロールスロイスでも良さそうだが、アメリカはある意味クラスレスな社会である。貧しいものでも努力すれば報われる、一攫千金も夢ではない。そんなアメリカンドリーム的な発想を表現するならばキャデラックしかない。「前進」と解釈したが、この映画の主人公は決して希望に満ち溢れているわけではない。むしろ自殺を図る同僚に、南へ行ったところで何も変わらないと諭されている。しかし、このまま北部に留まり酒浸りの人生を送るか、南に向かってあての無いものを見つけるかという選択肢しか無いのである。 そんな一縷の望みを乗せてキャデラックは走る。

一方、その15年程後に登場したダッジ・アスペンはどうだろうか。これはまさしく庶民の下駄である。しかもアメリカの自動車業界が生産品質管理の問題に悩まされていた時期のクルマである。これは労働者階級に突きつけられた現実だ。主人公は偽造パスポートの金を工面するために仕方なく銀行強盗を働く。銃とクルマを用意したのは偽造パスポート屋だ。銀行強盗から戻った主人公の相棒は貸し主に「バックができんぞ」と文句をたれる。これは自動車が物理的にバックできないということだけでなく、我々労働者階級は転落の道に入り込んだら最後、やり直しや後戻りする権利さえ取り上げられてしまっているのだということを訴えているのではないだろうか。このような対比を表現する手段として監督はゴールデンエイジのキャデラックと、輝きを失っていった時代の大衆車ダッジ・アスペンのポンコツを登場させたのであろう。このチョイスは見事としか言いようがない。

今回はカーアクション映画に限らずクルマが登場する映画の一つを取り上げた。そう言えば「クルマが登場する映画」に必ず出てくるのが、フランス映画の『男と女』(1966年公開)だ。私はこれを観たことがない。大人の恋、スポーティーなクーペ車、 哀愁漂う音色。私の生き様にあてはまるものは一つもない。どちらかと言えば、キムタクに憧れてタマホームとカローラのある生活をやってしまいそうなタイプだ。こんなシャレオツな映画にどこまで感情移入できるか見ものである。

 

 

ミニ四駆レーサー:1/32の世界で戦うマシンコンストラクター兼レースエンジニア達

12月7日(土)、筑波サーキットで電気自動車レースを観た。JEVRA(日本電気自動車レース協会)さんが主催するレースだ。今回は2019年度の最終戦(年6戦)。「全日本筑波EV50kmレース大会」ということで1周約2kmの「コース2000」を25周して争われた。8クラスが混走するレースで、トップカテゴリーの「EV1」クラスは出力161kw以上と規定されている。馬力に換算すると約220馬力以上である。車両としてはテスラ・モデルSやテスラ・ロードスターなどで筑波サーキットのラップタイムが1分10秒台だからなかなか速い。

電気自動車レースの面白いところは「電費」が勝敗の行方を大きく左右することである。途中までトップを走っていたクルマが途中で失速し後退することもあれば、トップ集団から引き離されていたクルマが終盤になってトップに躍り出ることもある。また下位カテゴリーのクルマがトップカテゴリーを喰うシーンも珍しくない。ピット戦略で順位を入れ代えたり、タイヤチョイスで勝負するよりも素人目には遥かに見応えがある。

何度も市販車ベースの電気自動車レースを観てきた身としては、やはり電気自動車レースの最高峰である「フォーミュラE」をこの目で見たいものである。日本での開催は実現するのだろうか。市街地レースの前哨戦でも模擬レースでもよいから筑波サーキット袖ヶ浦フォレストレースウェイのような比較的周回距離の短いサーキットで開催してもらえると嬉しい。筑波サーキットをF3並みのスピードでレースしたら危ないのかな。それならば最終コーナー手前にシケインを設けてもよいだろうし、その昔「グランナショナルストックカーレース」でやっていたように逆回りという手もある。そんな思いを抱きながら今はテレビでの観戦を楽しむことにしているのだ。

フォーミュラEを観る度に、あの「キュルキュルキュル」という音を聞いて思い起こすのが「ミニ四駆」である。ミニ四駆はメジャーな存在だし、私みたいな人間がミニ四駆を語る資格は無い。しかし世の中にはクルマの模型と聞いて糸巻き戦車を作った思い出だけが甦る人もいるはずだ。ちょっとだけ概要に触れる。

ミニ四駆は四輪駆動の機構を持ったプラモデル。「わしのくろがね四起と同じじゃ。ほっほっほ」と感じてもらえればしめたもの。モーターと単3乾電池2本で動く。架空のクルマが大多数を占めるがスケールは1/32と箱に書かれている。

1982年に最初のミニ四駆が発売された。シボレーとフォードのステップサイドのピックアップトラックだった。1986年にRCバギーのデザインを身に纏った「レーサーミニ四駆」が発売された。1987年に雑誌『コロコロコミック』で「ダッシュ!四駆郞」というミニ四駆漫画が連載されブームが始まったらしい。1988年に「ジャパンカップ」を初開催。翌年には「ダッシュ!四駆郞」のアニメ放送が始まる。'90年代に入ると世界展開も活発になる。1993年までが第一次ブーム。

1994年に『コロコロコミック』に新たなミニ四駆漫画「爆走兄弟レッツ&ゴー!!」が登場。翌年にはアニメ放送も開始され、人気に拍車がかかり、同年の「ジャパンカップ」には延べ30万人が動員されたそうだ。1997年、同アニメの劇場版映画も公開された。同年、総出荷数1億台を突破。1999年、「ジャパンカップ」は閉幕され、「爆走兄弟レッツ&ゴー!!」の連載も終了する。1999年までが第二次ブーム。

以上、『30th Anniversary ミニ四駆ヒストリカルガイド 』(タミヤ監修、小学館、2012年)という信頼できる素晴らしいムック本のおかげで乗り切れた。

私は物心付いた頃からリアルなものに関心を持ち、実車のクルマやバイクに憧れてきたからミニ四駆の存在を全く知らなかった。「じゃあフジミの1/24のアメリカンサイドマフラー付きピアッツァのホットロッドはリアルだったのかい?」「イマイの1/24 のグループ4っぽいターセルはリアルだったのかい?」と鼻の穴を膨らませて突っかかってきた人が居ても私の責任ではない。ミニ四駆に出逢ったのは偶然のこと。長男が幼稚園に上がり、そろそろプラモでもやろうかと接着剤を使わないプラモデルを探しに出掛けた時のことだ。10年程前の話である。ニチモの1/28のようなゼンマイで動くスナップキットはもう売られておらず、架空のクルマだがそれしか無いので仕方なく買って帰ったのがミニ四駆であった。

その後、数ヵ月が経ち、これまた偶然にミニ四駆レースに遭遇した。東京都の品川区にある「イオン品川シーサイド店(今はイオンスタイル品川シーサイド店かな)」に買い物に出掛けた日にミニ四駆の「ジャパンカップ 東京大会」が開催されていたのである。

まず圧倒されたのは目が追い付かない程のスピードだった。ノーマルの素組みされたものは別として、モーターを換えるなど少しでもチューンアップをすると単3乾電池2本で驚く程のスピードが出てしまう。また速くなればなる程、「キーン」「キュルキュルキュル」という音はかき消され、代わって「ゴーゥ、ゴーゥ」というコースの側壁を擦るもの凄い音がする。これは直進しかしないミニ四駆が無理矢理コースの壁に押し付けられながらカーブを曲がるからである。

これを目撃した自分がハマってしまい、「子供の喜ぶ顔が見たいから」などと調子のよいことを言ってレースへの参戦を始めた。丁度ミニ四駆の第三次ブームの幕開けの頃と時は重なり、出たばかりの『ミニ四駆パーフェクトガイド』(タミヤ監修、KKBレーシングファクトリー、2009年)を読んでは、見よう見真似で改造を施した。またリアルタイムでは全く知らなかったからネットや古本でミニ四駆の歴史を学び、『レッツ&ゴー』シリーズの単行本やVHS、DVDを買い集めた。おじさんっぽい発音で「レッツ アンド ゴー」と言っては、息子達から「レッツ エンド ゴー」だと注意を受けたことも一度や二度ではない。「なぜ少年漫画には土佐弁のやつと薩摩弁のやつと甲州弁のやつが必ず一人づつ出てくるのだろう」と相変わらず余計な方向に目が向いていたが、それは関係の無い話。ともかく家族は『レッツ&ゴー』の大ファンになったのであった。

 ミニ四駆は速さを追求しながらも、スピードを抑制する両方の性能を兼ね備えていないとまずレースでは勝てない。それどころか、スタート直後の1つ目のカーブでコースアウトを喫してしまうことも珍しくない。カーブに差し掛かりコース側壁からの抵抗を受け始めたら、どのようにスピードを落とすか、横Gに負けてコースアウトしそうなマシンをどのようにコース上に留まらせることができるか、上り坂で大ジャンプを起こしてコースアウトしないよう、どのようにスピードを殺しジャンプ時の高さや姿勢をコントロールするか、それでいて上り坂で失速して止まらないようにするためにはどのようにすればよいかといった様々工夫を凝らさなければならない。このようなことを考えながら、無数にある改造パーツを組み合わせてオリジナルマシンを作り上げるのである。

メーカー側は常に改良型のシャーシを発売しているが、最新型のシャーシが必ずしもよい成績を収めるとは限らないところがまた面白い。旧型シャーシに改良を重ね熟成させていくトップクラスのミニ四駆レーサーもいる。

私のようなにわかファンでは一次予選の通過もままならない。「ミニ四駆ステーション」という常設サーキットを持っている模型屋さんに入り浸っていたわけでも、チームに所属していたわけでもなく、本の情報を頼りに見よう見真似で作ったマシンを大会当日にぶっつけ本番で走らせていたわけだから当然の結果である。何度か一次予選を通過した時には、もう勝利の雄叫びを上げる勢いだった。たとえ負けが続いても、大会がある度に家族で各地を転戦するのはとても楽しい思い出となった。東京大会はもちろんのこと、「トレッサ横浜」で開催された横浜大会にはよく行ったし、那須の大会に泊まりがけで出掛けたこともある。徳島県に住んでいた頃には、愛媛県今治の大会と岡山県玉野市の「おもちゃ王国」まで遠征した。

会場にいらしたベテラン風情の方にお話を伺ったところ、なんでも理工学部の学生さん達が難しい計算をしたり、精密な機械加工を施してマシンを製作しているそうだ。また、見るからにエンジニアかメカニック風のお父さん達の姿も見える。公式大会には厳密な車両規則が定められている。ディメンション、使用可能なモーターの種類などもこれに規定される。決勝に近づくと乾電池は支給品のワンメイクだ。勝利したマシンは出走後にも再度車検を受ける必要がある。それでもミニ四駆レーサー達は創意工夫と、レギュレーションの盲点を突いて見たこともない新機構を作り上げてしまう。好成績を収めるとあっという間に模倣されてしまうし、最近ではチャンピオンマシンが雑誌の取材を受け掲載されてしまうから速さの秘訣が丸裸にされてしまうのである。時には主催者側から禁止とされてしまうモディファイもあるようだ。それでもなお、ミニ四駆レーサー達の更なる努力と創意工夫によって新たなアイデアがレースに持ち込まれ、次なる改造トレンドが産み出されていく。これはまるでF1の開発競争と同じではないか。車両規則がありながらも様々な開発コンセプト持ったマシンが集まる「GT300クラス」と同じではないか。

ミニ四駆で好成績を収めた学生さん達はどのような職に就くのだろうかとおじさんは考える。実車のレースの世界に進んだ若者は居るのだろうか。自動車整備の専門学校に進んで、あるいは大学に入り「学生フォーミュラ」などのレース活動に参加していればレースエンジニアやメカニックへの門が開かれているような気がするが、金銭的な事情などによりそうした道が閉ざされてしまったと感じている若者、しかしミニ四駆レースで培った発想力や分析力を実車レースでも試してみたいという意気込みを持った若者が居れば、あるいは実車レースへの夢を捨てきれない中途採用者でも構わない、特に優秀な成績を収めたミニ四駆レーサーを国内トップカテゴリーのレースチームにエンジニアやメカニックの卵として迎え入れることはできないだろうか。考え方は人それぞれだから必ずしも実車のレースの世界を目標にする必要はない。だが、日産自動車ソニー・コンピュータエンタテイメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)の協賛により開催された「GTアカデミー」のエンジニア版のようなものがあってもよいのではないかと考える。これによって、四輪レースは当然のこととして、カートもエンジンラジコンもやる機会が無く、比較的安価に楽しめるミニ四駆を戦いの場として選ぶことになった若者の中から優れた人材を発掘することができるかも知れない。

「他人のことはいいから結局オマエのミニ四駆はどうなったんだ?」と言うと、何となく自然消滅してしまった形である。最初に参加した「ジャパンカップ 東京大会」のエントリー数は800人くらいだったと記憶している。その後、テレビで特集番組が組まれることなどもあったからか人気は高まり、数年後の同大会には1,200人、2,000人とどんどん参加者が増えてきた。人数が増えてもレースに参加したり、特設の店舗でグッズの買い物をすることは楽しかった。しかし、いかんせん人混みが好きではないから、場所取りが面倒くさくなったりして行く気が段々と薄れてしまったのだろう。

その後、二人の息子の興味はミニ四駆に、いやクルマにも向かわなかった。長男は仮面ライダーガンダム→電子ゲーム、次男は妖怪ウォッチ→電子ゲーム→ゲームセンター&YouTuberと自動車世界は全滅した。彼らが幼かった頃、電子ゲームのキャラクターの名前を挙げては「○○と□□のどっちが好き」などと無邪気に訊ねてくることがよくあった。私はインベーダーゲームとせいぜい不良の喝アゲに怯えながらムーンクレスタをやったのが最後で、ジャンプして風船を掴むようなものは知らんのだ。電子ゲームには全く興味が無い私には子供の質問が全くわからず、「なんだ、そりゃすげぇなぁ、おまえ」とおじいさんと孫の会話のようなものが毎回繰り広げられたいた。

 

 

文系による文系のためのリバースエンジニアリング

何の制約もなく好きなクルマを所有できるのであれば、一つの組み合わせとして'77-'79のクライスラーコルドバ(角形縦目4灯、まあ丸目2灯でもいいけど)、'76-'77のシボレー・モンテカルロ(これも角形縦目4灯)、そして'77-'79のフォード・サンダーバード(隠しライト)の3台をガレージに並べたい。

しかし現実的にこれはあり得ない。でも趣味のクルマが欲しい。持とうとなると軽しかない。乗用車風情のクルマは既に1台あるから、同じようなものを2台持っていても意味がない。車中泊がしたいなどと色々考えているうちに軽のワンボックスカーに行き着いた。

狙うのは軽自動車の車両規格が変更される前(概ね1998年以前)のモデル。スタイルがいかにも'90年代のRV車っぽいし、ちょっと前だと恥ずかしかった当時のグラフィックデカールがなかなかいい感じになってきた。各社のモデルをネットで調べているうち、とんでもない化け物が突如として現れた。その名も三菱ブラボー・ルート66。これだ!これしかない!これが欲しい

三菱ブラボーの派生車であるルート66は1997年に発売されたらしい。1999年初頭のモデル末期まで販売されていたのか、途中でカタログ落ちをしてしまったのか。そもそも限定車だったのかよくわからない。どんなクルマかというと、1994年にフェイスリフトが施された2代目後期型がベースとなっている。本来三菱のスリーダイヤマークが鎮座するフロントパネルに、無理矢理メッキのどでかいフロントグリルがくっ付けられてしまったモデルである。リアのテールゲートの下部とリアバンパーとの間には、これまたメッキ調のリアガーニッシュが取り付けられ、何々風と言ったらよいのかわからないが、メッキのアルミホイールカルフォルニアミラーが奢られている。極めつけはボディサイドにでかでかと貼られた「Route 66」の文字だ。このグリルはダミーであるにもかかわらず、Y30かC32ローレルか、MS112クラウン・セダンにも負けないくらい立派なものである。それゆえに、元々のブラボーの面影は消え、おそらくヘッドライトも流用しているようだが、全く違う車種のように見えてしまうのである。三菱はブラボーに魔法をかけてしまった。

私は新車情報雑誌を全く読まないし、テレビもあまり観ない。欠かさず観るのはNHKの『バラエティー生活笑百科』くらいだ。これは録画している。だから、このクルマの存在を知らなかった。新車時から知っていればきっと目を付けていたであろう。相当な不人気車だったのか、ネットで検索しても数える程の情報しか出てこない。マニアックな人が写真をアップしてくれているのがせめてもの救いか。当時の情報もなければ、カタログを撮影したような画像もまるっきり無い。お世話になっている、茨城県つくば市のカタログ専門店「ノスタルヂ屋」さんにもカタログは入っていなかった。いったいぜんたいどのような意図をもって生まれてきたクルマなのだろうか。カタログが欲しいが見つからないし、カタログの写真も拝むことができない。カタログを手にするまで悶々とした日々を過ごすことになるのか。

いやちょっと待てよ。自動車メーカーで開発をしている人はベンツとかBMWを買ってきて、バラバラに分解していると聞いたことがある。中国の自動車メーカーは日本車をバラバラにして競争力の源泉を探ろうとしているのではないだろうか。彼らは「情報が無いからわかりませ~ん。やりませ~ん」などと言わぬはずだ。だったら文系のオレだって一丁やってやろうじゃねぇかっつーの。よーし、情報ゼロのところからバラバラにしてルート66のコンセプトを暴くぞ。

まずはネーミングだ。たった一案だけ考えられたということはないから、最終的に3~5案くらいは検討の遡上に載せられた筈だ。候補1案目は「三菱ブラボー・フリーダム」だったのではないか。これに対しては「いくらなんでも直球過ぎるな」「商標とれるのか?」という声が上がったに違いない。続いての案は「三菱ブラボー・グランドキャニオン」である。「軽自動車に乗っていることを忘れてしまうような室内空間の広さも訴求できます」とは担当者の弁。然るべき人達からは、「う~ん、いいんだけどちょっとトラックを連想させてしまうかな」との意見が寄せられたかもしれない。中には「次期型のキャンターに使えるかも」といった調子のよいことを言う人も。「三菱ブラボー・ルート66」を聞いた途端「これは情緒的だ」と満場一致でゴーサインが出てのであろう。

このネーミングが出てきたからには、背景のコンセプトを導き出す必要がある。これにも2つないし3つくらいの案が最終的に残されたはずだ。まず提示されたのは「ノスタルジック アドベンチャー」という「古き良き時代を大切にしながら、新しいことに積極的にチャレンジする」考え方を表現したコンセプト案。然るべき人々は「RVっぽいイメージが強過ぎるのでは?」という疑問を呈したことだろう。二つ目は「アーバン in カントリー」である。「元々のブラボーがこれに近いよね」という人の意見でボツ案に。追い込まれた担当者が放った渾身の一撃が「ザ・フリーライダー」だった。海外現地法人のトップを歴任してきた然るべき人からは「英語では『タダ乗りって』意味になっちゃうよ」という意見が寄せられたが、担当チーム連中は「いえ、『自由』な『イージーライダー』です」「しかもこれは国内限定車ですから」と押し切ったことにしよう。「あっそうか」となったのだと信じたい。「ところでターゲットはどういう人たちなんだ」との問いに対し、「時代に流されない、自分の価値観を持った人(まあ、あらゆる製品にあてはまりそうだが)」との説明がなされた。「素晴らしい仕事をしたぞ君達は」と褒められたかどうかは知る由もない。

う~ん、しかしここまで来ても、なぜこのクルマが生まれたのか一向に謎のままだ。当時はどのようなクルマが世に出てきたのだろうと調べてみることにした。もしかしたら、「USカスタム」バージョンの一つとして作られたのではないかと推理した。二玄社さんの別冊CG『自動車アーカイブ 90年代の日本車篇』のVol. 18①とVol. 19②(どちらも2009年)を読んでみてわかったことは、それらのモデルが充実してくるのは大体1998~1999年頃からでありルート66以降である。ネコ・パブリッシングさんの『デイトナ』2008年10月号増刊『The 90's Car Catalogue』に「クラシックな装いを身に纏ったKカー」というページがあったのを思い出した。ここには「レトロ軽」というジャンルのクルマ達が誌面を飾っている。これによると、「レトロ軽」にも幾つか異なる趣というかモチーフが存在しているらしい。ブームの火付け役となったスバル・ヴィヴィオ・ビストロや後に続いたダイハツ・ミラ・クラシックなどは「英国風」のテイストのようである。スズキ・セルボモード・クラシックも「英国風」なのかもしれない。それに対し、ダイハツ・オプティ・クラシックは「イタリアン」である。これは何となく私でもイメージできる。軽ではないが、日産のマーチ・タンゴやボレロもラテン系だ。

私はここでビビっと来た。待てよ。アメリカ風のレトロテイストが空白地帯だぞ。オリジナルのブラボーのクリーンで洗練されたデザインからは、現代的なヨーロピアンテイストを感じる。レトロ調の派生車を作ろうということになったとしても、スバル・サンバー・ディアスクラッシックとは異なるテイストを与えないと二番煎じに陥りかねない。そこで三菱は間隙を突いた形でアメリカンクラシックに活路を見いだしたのかも知れない。

当たっているか外れているかは、いつかカタログを手にした時に答え合わせをしてみるつもりだ。今回はコンセプトをリバースエンジニアリングしてみた。理論上、同じ発想で物事を辿っていけば同じものができるということだから、またいつか遠い将来にルート66のようなクルマにお目にかかれるのである。素晴らしいじゃないか。

もしも私が生まれ変わりカーデザイナーあるいはグラフィックデザイナーになれたなら、117クーペのボンネットに貼るデカールを描いてみたい。スバル・サンバー・ディアスクラシックのステンレスフロントバイザーをデザインしてみたい。間違っても「一目で見て○○ブランドとわかるデザイン」のような時代に降りることだけは御免蒙りたい。ただその時代時代に合ったカッコイイものをやりたいのだ。

商業的に成功したかどうかはともかく、一生懸命考えられ生まれて来たクルマとそれを作った人たちに敬意を払いたい。三菱ブラボー・ルート66を手にいれることができたとしても、普段着で乗るのは失礼に当たる。私はイーブル・クニーブルのコスチュームを誂えるだろう。