付加価値のない自動車会

~副題 クルマだらけの間違いづくし~

ミニ四駆レーサー:1/32の世界で戦うマシンコンストラクター兼レースエンジニア達

12月7日(土)、筑波サーキットで電気自動車レースを観た。JEVRA(日本電気自動車レース協会)さんが主催するレースだ。今回は2019年度の最終戦(年6戦)。「全日本筑波EV50kmレース大会」ということで1周約2kmの「コース2000」を25周して争われた。8クラスが混走するレースで、トップカテゴリーの「EV1」クラスは出力161kw以上と規定されている。馬力に換算すると約220馬力以上である。車両としてはテスラ・モデルSやテスラ・ロードスターなどで筑波サーキットのラップタイムが1分10秒台だからなかなか速い。

電気自動車レースの面白いところは「電費」が勝敗の行方を大きく左右することである。途中までトップを走っていたクルマが途中で失速し後退することもあれば、トップ集団から引き離されていたクルマが終盤になってトップに躍り出ることもある。また下位カテゴリーのクルマがトップカテゴリーを喰うシーンも珍しくない。ピット戦略で順位を入れ代えたり、タイヤチョイスで勝負するよりも素人目には遥かに見応えがある。

何度も市販車ベースの電気自動車レースを観てきた身としては、やはり電気自動車レースの最高峰である「フォーミュラE」をこの目で見たいものである。日本での開催は実現するのだろうか。市街地レースの前哨戦でも模擬レースでもよいから筑波サーキット袖ヶ浦フォレストレースウェイのような比較的周回距離の短いサーキットで開催してもらえると嬉しい。筑波サーキットをF3並みのスピードでレースしたら危ないのかな。それならば最終コーナー手前にシケインを設けてもよいだろうし、その昔「グランナショナルストックカーレース」でやっていたように逆回りという手もある。そんな思いを抱きながら今はテレビでの観戦を楽しむことにしているのだ。

フォーミュラEを観る度に、あの「キュルキュルキュル」という音を聞いて思い起こすのが「ミニ四駆」である。ミニ四駆はメジャーな存在だし、私みたいな人間がミニ四駆を語る資格は無い。しかし世の中にはクルマの模型と聞いて糸巻き戦車を作った思い出だけが甦る人もいるはずだ。ちょっとだけ概要に触れる。

ミニ四駆は四輪駆動の機構を持ったプラモデル。「わしのくろがね四起と同じじゃ。ほっほっほ」と感じてもらえればしめたもの。モーターと単3乾電池2本で動く。架空のクルマが大多数を占めるがスケールは1/32と箱に書かれている。

1982年に最初のミニ四駆が発売された。シボレーとフォードのステップサイドのピックアップトラックだった。1986年にRCバギーのデザインを身に纏った「レーサーミニ四駆」が発売された。1987年に雑誌『コロコロコミック』で「ダッシュ!四駆郞」というミニ四駆漫画が連載されブームが始まったらしい。1988年に「ジャパンカップ」を初開催。翌年には「ダッシュ!四駆郞」のアニメ放送が始まる。'90年代に入ると世界展開も活発になる。1993年までが第一次ブーム。

1994年に『コロコロコミック』に新たなミニ四駆漫画「爆走兄弟レッツ&ゴー!!」が登場。翌年にはアニメ放送も開始され、人気に拍車がかかり、同年の「ジャパンカップ」には延べ30万人が動員されたそうだ。1997年、同アニメの劇場版映画も公開された。同年、総出荷数1億台を突破。1999年、「ジャパンカップ」は閉幕され、「爆走兄弟レッツ&ゴー!!」の連載も終了する。1999年までが第二次ブーム。

以上、『30th Anniversary ミニ四駆ヒストリカルガイド 』(タミヤ監修、小学館、2012年)という信頼できる素晴らしいムック本のおかげで乗り切れた。

私は物心付いた頃からリアルなものに関心を持ち、実車のクルマやバイクに憧れてきたからミニ四駆の存在を全く知らなかった。「じゃあフジミの1/24のアメリカンサイドマフラー付きピアッツァのホットロッドはリアルだったのかい?」「イマイの1/24 のグループ4っぽいターセルはリアルだったのかい?」と鼻の穴を膨らませて突っかかってきた人が居ても私の責任ではない。ミニ四駆に出逢ったのは偶然のこと。長男が幼稚園に上がり、そろそろプラモでもやろうかと接着剤を使わないプラモデルを探しに出掛けた時のことだ。10年程前の話である。ニチモの1/28のようなゼンマイで動くスナップキットはもう売られておらず、架空のクルマだがそれしか無いので仕方なく買って帰ったのがミニ四駆であった。

その後、数ヵ月が経ち、これまた偶然にミニ四駆レースに遭遇した。東京都の品川区にある「イオン品川シーサイド店(今はイオンスタイル品川シーサイド店かな)」に買い物に出掛けた日にミニ四駆の「ジャパンカップ 東京大会」が開催されていたのである。

まず圧倒されたのは目が追い付かない程のスピードだった。ノーマルの素組みされたものは別として、モーターを換えるなど少しでもチューンアップをすると単3乾電池2本で驚く程のスピードが出てしまう。また速くなればなる程、「キーン」「キュルキュルキュル」という音はかき消され、代わって「ゴーゥ、ゴーゥ」というコースの側壁を擦るもの凄い音がする。これは直進しかしないミニ四駆が無理矢理コースの壁に押し付けられながらカーブを曲がるからである。

これを目撃した自分がハマってしまい、「子供の喜ぶ顔が見たいから」などと調子のよいことを言ってレースへの参戦を始めた。丁度ミニ四駆の第三次ブームの幕開けの頃と時は重なり、出たばかりの『ミニ四駆パーフェクトガイド』(タミヤ監修、KKBレーシングファクトリー、2009年)を読んでは、見よう見真似で改造を施した。またリアルタイムでは全く知らなかったからネットや古本でミニ四駆の歴史を学び、『レッツ&ゴー』シリーズの単行本やVHS、DVDを買い集めた。おじさんっぽい発音で「レッツ アンド ゴー」と言っては、息子達から「レッツ エンド ゴー」だと注意を受けたことも一度や二度ではない。「なぜ少年漫画には土佐弁のやつと薩摩弁のやつと甲州弁のやつが必ず一人づつ出てくるのだろう」と相変わらず余計な方向に目が向いていたが、それは関係の無い話。ともかく家族は『レッツ&ゴー』の大ファンになったのであった。

 ミニ四駆は速さを追求しながらも、スピードを抑制する両方の性能を兼ね備えていないとまずレースでは勝てない。それどころか、スタート直後の1つ目のカーブでコースアウトを喫してしまうことも珍しくない。カーブに差し掛かりコース側壁からの抵抗を受け始めたら、どのようにスピードを落とすか、横Gに負けてコースアウトしそうなマシンをどのようにコース上に留まらせることができるか、上り坂で大ジャンプを起こしてコースアウトしないよう、どのようにスピードを殺しジャンプ時の高さや姿勢をコントロールするか、それでいて上り坂で失速して止まらないようにするためにはどのようにすればよいかといった様々工夫を凝らさなければならない。このようなことを考えながら、無数にある改造パーツを組み合わせてオリジナルマシンを作り上げるのである。

メーカー側は常に改良型のシャーシを発売しているが、最新型のシャーシが必ずしもよい成績を収めるとは限らないところがまた面白い。旧型シャーシに改良を重ね熟成させていくトップクラスのミニ四駆レーサーもいる。

私のようなにわかファンでは一次予選の通過もままならない。「ミニ四駆ステーション」という常設サーキットを持っている模型屋さんに入り浸っていたわけでも、チームに所属していたわけでもなく、本の情報を頼りに見よう見真似で作ったマシンを大会当日にぶっつけ本番で走らせていたわけだから当然の結果である。何度か一次予選を通過した時には、もう勝利の雄叫びを上げる勢いだった。たとえ負けが続いても、大会がある度に家族で各地を転戦するのはとても楽しい思い出となった。東京大会はもちろんのこと、「トレッサ横浜」で開催された横浜大会にはよく行ったし、那須の大会に泊まりがけで出掛けたこともある。徳島県に住んでいた頃には、愛媛県今治の大会と岡山県玉野市の「おもちゃ王国」まで遠征した。

会場にいらしたベテラン風情の方にお話を伺ったところ、なんでも理工学部の学生さん達が難しい計算をしたり、精密な機械加工を施してマシンを製作しているそうだ。また、見るからにエンジニアかメカニック風のお父さん達の姿も見える。公式大会には厳密な車両規則が定められている。ディメンション、使用可能なモーターの種類などもこれに規定される。決勝に近づくと乾電池は支給品のワンメイクだ。勝利したマシンは出走後にも再度車検を受ける必要がある。それでもミニ四駆レーサー達は創意工夫と、レギュレーションの盲点を突いて見たこともない新機構を作り上げてしまう。好成績を収めるとあっという間に模倣されてしまうし、最近ではチャンピオンマシンが雑誌の取材を受け掲載されてしまうから速さの秘訣が丸裸にされてしまうのである。時には主催者側から禁止とされてしまうモディファイもあるようだ。それでもなお、ミニ四駆レーサー達の更なる努力と創意工夫によって新たなアイデアがレースに持ち込まれ、次なる改造トレンドが産み出されていく。これはまるでF1の開発競争と同じではないか。車両規則がありながらも様々な開発コンセプト持ったマシンが集まる「GT300クラス」と同じではないか。

ミニ四駆で好成績を収めた学生さん達はどのような職に就くのだろうかとおじさんは考える。実車のレースの世界に進んだ若者は居るのだろうか。自動車整備の専門学校に進んで、あるいは大学に入り「学生フォーミュラ」などのレース活動に参加していればレースエンジニアやメカニックへの門が開かれているような気がするが、金銭的な事情などによりそうした道が閉ざされてしまったと感じている若者、しかしミニ四駆レースで培った発想力や分析力を実車レースでも試してみたいという意気込みを持った若者が居れば、あるいは実車レースへの夢を捨てきれない中途採用者でも構わない、特に優秀な成績を収めたミニ四駆レーサーを国内トップカテゴリーのレースチームにエンジニアやメカニックの卵として迎え入れることはできないだろうか。考え方は人それぞれだから必ずしも実車のレースの世界を目標にする必要はない。だが、日産自動車ソニー・コンピュータエンタテイメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)の協賛により開催された「GTアカデミー」のエンジニア版のようなものがあってもよいのではないかと考える。これによって、四輪レースは当然のこととして、カートもエンジンラジコンもやる機会が無く、比較的安価に楽しめるミニ四駆を戦いの場として選ぶことになった若者の中から優れた人材を発掘することができるかも知れない。

「他人のことはいいから結局オマエのミニ四駆はどうなったんだ?」と言うと、何となく自然消滅してしまった形である。最初に参加した「ジャパンカップ 東京大会」のエントリー数は800人くらいだったと記憶している。その後、テレビで特集番組が組まれることなどもあったからか人気は高まり、数年後の同大会には1,200人、2,000人とどんどん参加者が増えてきた。人数が増えてもレースに参加したり、特設の店舗でグッズの買い物をすることは楽しかった。しかし、いかんせん人混みが好きではないから、場所取りが面倒くさくなったりして行く気が段々と薄れてしまったのだろう。

その後、二人の息子の興味はミニ四駆に、いやクルマにも向かわなかった。長男は仮面ライダーガンダム→電子ゲーム、次男は妖怪ウォッチ→電子ゲーム→ゲームセンター&YouTuberと自動車世界は全滅した。彼らが幼かった頃、電子ゲームのキャラクターの名前を挙げては「○○と□□のどっちが好き」などと無邪気に訊ねてくることがよくあった。私はインベーダーゲームとせいぜい不良の喝アゲに怯えながらムーンクレスタをやったのが最後で、ジャンプして風船を掴むようなものは知らんのだ。電子ゲームには全く興味が無い私には子供の質問が全くわからず、「なんだ、そりゃすげぇなぁ、おまえ」とおじいさんと孫の会話のようなものが毎回繰り広げられたいた。