付加価値のない自動車会

~副題 クルマだらけの間違いづくし~

1962年型キャデラックが登場する映画と言えば...

高校生になる息子が「『グリーン ブック』を観た」と言って帰ってきた。なかなかのセンスじゃないか。私が高校生の頃、こんな映画を観たくなるような感性を持ち合わせていただろうか。『グリーン ブック』と言えばキャデラックだ。コレクターでもマニアでもない私でも、一瞬にして1961年型か1962年型あたりのモデルであることは見分けられる。1961と1962の違いはテールランプを見ないと判別できない。1961はなぜか横型配列になり、翌年縦型に戻った。『グリーン ブック』に登場するのは1962年型だ。1963年型と1964年型も似ているのでよくわからん。私の大好きなカーアクション映画の一つ、ウォルター・ヒル監督の『 48時間(原題48 Hrs.)』に登場するボロボロのキャデラックは1964らしい。1965年型から1968年型までは丸目縦型4灯。全部カッコいい。1967と1968も同じく見える。1968からコンシールド・ワイパーになるので、私はそれで見分けている。きっとマニアの方や専門家はグリルの格子などで判別できるのだろう。

それはさておき、『グリーン ブック』のキャデラックを見て、ある映画を思い出した。しかし、それはカーアクション映画でもなければアメリカ映画でもない。フィンランドを代表する映画監督アキ・カウリスマキの作品である。映画に詳しい方ならば、この人物をご存知のはずだ。アキ・カウリスマキについて少し触れると、彼は1957年にヘルシンキの郊外の村で生まれた。16歳で映画に目覚め、20歳の時、先に映画を学んでいた兄に連れられて観た小津安次郎の『東京物語』(1953)に感化され映画を撮る決心をする。1983年に自身初の作品を発表。1986年にはカンヌ国際映画祭コンペ部門作品にノミネートされる。この頃には既に国際的な評価も高く、2002年に公開された『過去のない男』はカンヌ国際映画祭グランプリを受賞した。アメ車好きとフィンランド映画があまり結び付いてこないが、興味ある人は『アキ・カウリスマキ』(遠山純生編、エスクァイア  マガジン ジャパン、2003)を読んでね。

そもそも私自身アキ・カウリスマキを知っていたわけではない。皆さんはフィンランドと聞いて何を思い浮かべるだろうか。一般的にはサンタクロース、ムーミン、オーロラ、ノキアなどかも知れない。私にとってはケケ・ロズベルグだ。リアルタイムではないがヤーノ・サーリネン、そして私の時代ではミカ・サロ、ミカ・ハッキネン、キミ・ライッコネン(前の職場にいたフィンランド人の同僚がこのように発音してた)、最近ではミカ・カリオもいる。ラリードライバーとなると書ききれない。モータースポーツファンにとっては非常に興味深い国である。いつか「フライング・フィン」ゆかりの地を巡るフィンランド旅行をしてみたいという夢を描き始めフィンランドの文化についての本を読むようになった。このような過程でアキ・カウリスマキの映画と出会ったのである。

この監督の映画には時折ヘンなクルマが登場する。2002年の『過去のない男』には主人公のものではないが、おそらく1950年代のイギリス車が登場する(イギリス車ファンの皆さん、ごめんなさい。今度ちゃんと調べておきます)。また、2017年に公開された『希望のかなた』では主人公の愛車はなんとチェッカー・マラソンである。タクシーの払い下げではなく、個人オーナー向けのモデルで色は黒だ。私には年式までわからない。どちらの映画も時代設定は現代である。そして今回紹介したい同監督の作品『真夜中の虹』(1988年公開)で主人公が駆るのは白の1962年型キャデラックのコンバーチブルである。

ストーリーについては後述するとして、この頃のキャデラックについて考えたい。『トミカプレミアム』の1台にもなっている超有名な1959年型はキャデラック史上最大のテールフィンを備えていた。1960年型は前年モデルのデザインを踏襲。ややテールフィンが小ぶりとなりシンプルな印象を与えているが、興味の無い人からしたら見分けが付かないだろう。この2年前の1958年、長年GMのデザイン部門を率いてきた副社長のハーリー・アールが65歳の定年退職を迎えた。これらのモデルは数年前に開発を終えているはずだから、乱暴に言ってしまえばハーリー・アールのデザインということになる。ハーリー・アールがGMに招き入れ、育て上げたビル・ミッチェル(william L. Mitchell)が跡を継いだ。手持ちの本『 CARS OF THE 60s』(CONSUMER GUIDE、Beekman House、1979)によれば、1961年型はビル・ミッチェルのスタッフが手掛けた最初のモデルである。ビル・ミッチェルはクロームメッキの多用を好まなかったようだ。また、より輪郭のはっきりしたデザイン志向だった。1961年型から一部を除き「ラップアラウンドウインドウ」が廃された。こうしてかつてのキャデラックには無かったクリーンなスタイリングが実現した。1962年型は小変更に留まる。テールフィンは若干低められ、リアの灯火類が一つのハウジングに収められた。 

先日、お母さんに危うく捨てられそうになっていたアメリカ車の洋書を実家から救出した。改めて見ると1960年代のアメリカ車の本が非常に多いことに気づいた。どうやら若い頃は'60sのアメリカ車が最も好きだったようだ。とりわけこの時代のGM車が好きだったから、私のテイストはビル・ミッチェルのデザインだったということである。

話を映画に戻そう。『真夜中の虹』は同監督の「敗者3部作」と呼ばれている映画の内の一つらしい。1980年代のフィンランドに起きた農業社会から工業社会への急速な転換期に、発展から取り残された労働者階級を描いた作品群だ(前述の『アキ・カウリスマキ』)。主人公が働く炭鉱が閉鎖される。生きる希望を失った同僚(主人公よりもやや年配者)はピストル自殺する。その直前、前から欲しがっていたということで、主人公に愛車キャデラックのキーが渡される。キャデラックに乗って都市がある南へと向かうロードムービーである。主人公はすぐさま強盗に遭い一文無しに。不法の日雇い仕事にありつき、教会が運営する簡易宿泊所で夜を過ごす。日雇い仕事のオーナーは逮捕され食い扶持は途絶え、宿泊所からも追い出されてしまう。仕事は見つからない。そんな中、自分を襲った強盗を発見し、追い詰めた途端に駆けつけた警官に取り押さえられ、結果有罪判決が下され刑務所送りになる。監房仲間と脱獄することに成功。海外逃亡を図るために偽造パスポート屋を訪れる。その金を工面するために、偽造パスポート屋に銀行強盗をけしかけられる。といったように主人公を取り巻く事態は暗転するばかりである。色々と紆余曲折があるものの、始まりから終わりまで目的に向かって突っ走るのが1962年型のキャデラックなのである。

この映画には重要なシーンにもう1台アメリカ車が登場する。シルバーのダッジ・アスペンだ。モデルイヤー1976年から1979年の丸目2灯である。兄弟車のプリムス・ヴォラーレと見分けが付かない。グリルの真ん中に小さいワッペンが貼られているところを見るとダッジのようだ。劇中車はかなりやつれている。塗装は光沢を失い、足元からホイールキャップが取り外されている。黒の鉄ホイールが茶色くて汚ならしい。フロントグリル前に取り付けられた丸い巨大なドライビングランプがダサダサだ。銀行の前におもむろに停車すると、主人公と脱獄仲間は銀行に押し入る。少し間を置いて金を手にした二人が銀行から出てくる。クルマに乗り込みバックをしようとするが、異音を上げてバックギアに入ろうとしない。

ダッジ・アスペン/プリムス・ヴォラーレ(1976~1980)は欠陥車の本にしょっちゅう出てくる常連だ。それぞれのブランドで毎年20万~30万台生産していたお化けのようなダッジ・ダート/プリムス・ヴァリアントの後継車種である。ダート/ヴァリアントもアスペン/ヴォラーレの両世代ともカッコいい。どちらがより欲しいかと訊かれれば、アスペン/ヴォラーレと答えるだろう。特に最終年の角目2灯が好きだ。欠陥の内容について各本で語られているのは「錆びがひどかった」というもの。『LEMONS THE WORLD'S WORST CARS』(Timothy Jacobs、Smithmark Publishers、1991)が一番真面目に詳述している。おそらくメーカーのリコール歴に基いて書いてあるのだろう。不具合は、室内とトランクへの水漏れ問題から始まり、スターター、トランスミッション、ブレーキ、フロントサスのピボット、パワステ、触媒、電気系統、ホイールベアリングなどに及ぶ他、キャブのコンピューターエラー、エンジンストールの発生なども起きるクルマだったようだ。ボンネットのラッチの脱落で突然開いたりするなんてことも。『8時だョ!全員集合』の前半戦か。錆びについても具体的に書かれていた。直ぐにフロントフェンダーが錆びてしまいリコール対象となっていた。エアバッグなどのリコールならばわかるが、フロントフェンダーを交換してくれるとは驚いた。それでもこの兄弟ブランドはそれぞれ最盛期には30万台が生産された。最終年でさえも、プリムス10万台、ダッジ8万台も生産されていたからアメリカ人の国民車だったのだろう。

しかしなぜ、フィンランドを舞台にした映画でオールドキャディとダッジなのだろう。1980年台後半のフィンランドでは欧州車が一般的なはずである。実際、映画シーンの背景に欧州車が映っている。先の書籍『アキ・カウリスマキ』によれば監督はカーコレクターのようだが、さっと見るかぎりネットでその情報は出てこなかった。また、キャデラックは監督自身の持ち物とのこと。しかし、単に自分が好きな古いクルマを登場させたかったとは思い難い。何かの意味合い、メッセージが隠されているように思えてならない。当たり前かも知れないが、映画にはテーマがあるのだと言う。私は『東映まんがまつり』の『さるとびエッちゃん』からすぐに『ダーティーハリー』のようなものに行ってしまったクチだから映画のテーマなんてものを考えたことがなかった。「作者は何が言いたかったのか」と国語の授業で問われて、「知らねぇよ。作者に訊いてくれよ」などとほざいたところ先生にぶっとばされた過去がある。だが、そんな私でも映画『カーズ』の第一作を観たときに感じるものがあった。あの映画のテーマを私なりに解釈すると「前進」である。主人公のライトニング・マックイーンは前に進むことにしか関心がない。停滞したり後退することなどは許せないのだ。そんなマックイーンの親友となるメーターはバックが得意であるだけでなく、それを楽しんでいる。「ラジエーター・スプリングス」に迷い込み、そこに暮らす人と触れ合う内にマックイーンは時には立ち止まることも、後ろに戻ることも大切であることを学ぶのである。

『真夜中の虹』のテーマも「前進」ではないかと自分なりに解釈した。1962年型のキャデラックというのは世界一豊かな国の富の象徴であった。富の象徴であるならばロールスロイスでも良さそうだが、アメリカはある意味クラスレスな社会である。貧しいものでも努力すれば報われる、一攫千金も夢ではない。そんなアメリカンドリーム的な発想を表現するならばキャデラックしかない。「前進」と解釈したが、この映画の主人公は決して希望に満ち溢れているわけではない。むしろ自殺を図る同僚に、南へ行ったところで何も変わらないと諭されている。しかし、このまま北部に留まり酒浸りの人生を送るか、南に向かってあての無いものを見つけるかという選択肢しか無いのである。 そんな一縷の望みを乗せてキャデラックは走る。

一方、その15年程後に登場したダッジ・アスペンはどうだろうか。これはまさしく庶民の下駄である。しかもアメリカの自動車業界が生産品質管理の問題に悩まされていた時期のクルマである。これは労働者階級に突きつけられた現実だ。主人公は偽造パスポートの金を工面するために仕方なく銀行強盗を働く。銃とクルマを用意したのは偽造パスポート屋だ。銀行強盗から戻った主人公の相棒は貸し主に「バックができんぞ」と文句をたれる。これは自動車が物理的にバックできないということだけでなく、我々労働者階級は転落の道に入り込んだら最後、やり直しや後戻りする権利さえ取り上げられてしまっているのだということを訴えているのではないだろうか。このような対比を表現する手段として監督はゴールデンエイジのキャデラックと、輝きを失っていった時代の大衆車ダッジ・アスペンのポンコツを登場させたのであろう。このチョイスは見事としか言いようがない。

今回はカーアクション映画に限らずクルマが登場する映画の一つを取り上げた。そう言えば「クルマが登場する映画」に必ず出てくるのが、フランス映画の『男と女』(1966年公開)だ。私はこれを観たことがない。大人の恋、スポーティーなクーペ車、 哀愁漂う音色。私の生き様にあてはまるものは一つもない。どちらかと言えば、キムタクに憧れてタマホームとカローラのある生活をやってしまいそうなタイプだ。こんなシャレオツな映画にどこまで感情移入できるか見ものである。