付加価値のない自動車会

~副題 クルマだらけの間違いづくし~

その後のアイアコッカ、アイアコッカ後のクライスラー

若い頃アイアコッカ(Lee Iacocca)に影響を受けたと以前に書いたことがある。そんなことを言っておきながら、その後ずっとアイアコッカの追っかけをやっていたわけではない。'90年代に入ってからのアイアコッカはどうなったのだろう。いつまでクライスラーを率いていたのだろうか。ダッジ・バイパー、プリムス・プロウラー、クライスラーPTクルーザーなどの開発ストーリーにしばしば登場するボブ・ラッツ(Robert Anthony "Bob" Lutz)とはどんな関係だったのか。どんな経緯でクライスラーとベンツは合併することになったのだろうか。そのような問いに全く答えることができない。思えばこの30年間、常に自動車業界の動向を見張っていたかと言われると自信が無い。そんな思いを抱きながら、読まずに置いてあった自動車業界のビジネス本をごそごそと引っ張りだしてきた。どこかにアイアコッカのことが書いてあるかな。

 

1990年代のクライスラーにとって最も大きな出来事は合併である。ダイムラー・クライスラーの合併についての本を当時二冊買っていた。一つ目は『合併 ー ダイムラー・クライスラーの21世紀戦略』(ホルガー・アペル/クリストフ・ハイン共著、村上清訳、トラベルジャーナル、1999)。本文323ページ、2,000円もする。二つ目は『ダイムラー・クライスラー 世紀の大合併をなしとげた男たち』(ビル・ヴラシック/ブラッドリー・A・スターツ共著、鬼澤忍訳、中央精版印刷、2001年)。こちらは本文526ページ。2,400円とこちらも高級本。買った当時、開いて3分もすれば深い眠りへと誘ってくれる本だったのか、殆ど未読のままだった。なんという無駄遣いだ。MOTTAINAI。いや時の贅沢。おすすめは断然後者である。ノンフィクション小説風でかなり面白い。自動車メーカーの世界再編の理由として「400万台クラブに入らないと生き残れない」という業界の常識は耳にしていた。『ダイムラー・クライスラー 世紀の大合併をなしとげた男たち』にはどのような背景の下で合併が画策されたのか、合併後の社内にどのようなことが起きたのかまで書かれており、自動車業界の切迫した状況を窺い知ることができた。幾人もの自動車業界のカリスマが登場し、20年近く経た今でも読み応えのある本だ。ネタバレを恐れずにこの本の内容に基づき「世紀の大合併」の動きを追ってみよう。強烈な個性と個性とのぶつかり合いが生んだ大事件だ。

 

なぜクライスラーは合併を模索し始めたのか。その背景を見てみたい。久保鉄男さんという方の『ビッグスリー崩壊』(フォーイン、2009)によると、米国の自動車販売台数は1978年に過去最高の1,500万台に達した後、それから下降し続け第二次オイルショックが起きた1982年には1,000万台レベルまで落ち込んだ。その後需要は回復し1986年には過去最高を更新し1,600万台となった。ところが1987年10月にニューヨーク株式市場で株価が大暴落し景気後退期に転じてしまう。その影響は1989年の新車販売台数にも現れ始める。1991年に世界不況が起こり、米国のGDPも9年ぶりにマイナスに陥った。またもや経営不振いや倒産寸前と言われたクライスラーは1991年の初頭、フォードに合併をもちかけた。だが、その当時のクライスラーには優良資産が残っておらず、老朽化した生産設備、時代遅れの商品(Kカー引っ張りすぎだろ!)など魅力は薄くフォードに断られた。実は10年前の経営危機の時にもクライスラー側からフォードによる吸収合併が提案されていた。かなりきちんとした実行可能性の調査をクライスラーは行ったようだ。アイアコッカが計画書を携えてウイリアム・フォード(アイアコッカをクビにしたヘンリー・フォード二世の弟)とも会談している。アイアコッカの自叙伝『アイアコッカ わが闘魂の経営』(徳岡孝夫訳、ダイヤモンド社、1985)によると、フォード側は真剣に討議することなく一蹴したとのことである。1991年末には北米におけるフィアットの販売権をフィアット社に売却。また、三菱自動車と合弁方式でイリノイ州に建設した生産会社のダイヤモンド・スター・モーターズ(DSM)の保有株の全てを三菱自動車に売却してしまった。さらに、1987年に買ったランボルギーニも1993年にインドネシアの財閥に譲渡してしまった。(『モーターマガジン 4月臨時増刊 '92世界の自動車』)

 その一方でクライスラーはこの時期の苦しい試練を通じて自己改革が進んでいた。具体的に言えば、コスト削減や開発期間の短縮といったもので自力を付けることに成功した。1992年1月の「デトロイト・モーター・ショー」には待望の「LHカー」が披露され、同年’93モデルとして販売が開始された。私は少し遅れて出てきたクライスラー・LHSやニューヨーカーの実車を初めて見た時、何てカッコいいクルマなんだろうと「キャブフォワードデザイン」に見惚れた。その後、’94モデルのダッジ・ラム・ピックアップトラックが登場。これにも「わー、顔がコンボイみたいだ!」と感動したのは私だけでなくアメリカ人もそうだったのかヒットモデルとなる。また、そろそろモデル末期に近付いていたもののプリムス・ボイジャー/ダッジ・キャラバンもカテゴリー内で独走状態だった。

 再び『ビッグスリー崩壊』を見ると、1994年の米国新車販売台数は1,500万台まで回復している。1994年度のクライスラーの業績を振り返る。収入は52億ドル、当時の為替レートは概ね1ドル100円だったので5兆2,000億円、利益は37億ドル(3,700億円)、シェアは過去最高の15%を獲得した。それでもなお、クライスラーの株価は低迷したままだった。好業績の裏でクライスラーの大株主の一部が中心となり、現経営陣を取り込んだ友好的買収が計画されていた。

 

企業買収に詳しい人ならばカーク・カーコリアン(Kirk Kerkorian)の名を聞いたことがあるだろう。カーコリアンは1917年(大正6年)にカリフォルニア州で生まれたアルメニアアメリカ人である。『ダイムラー・クライスラー 世紀の大合併をなしとげた男たち』には書かれていないが、ウィキペディアの情報から推測すると、カーコリアンの両親は19世紀末から20世紀初頭に起きたオスマン帝国(現トルコ)によるとされているアルメニア人虐殺から逃れてきた人のようである。カーコリアンはアマチュアボクサーを経て1940年代にカナダ・英国空軍に入隊。第二次世界大戦終結後、世界各地からぼろぼろの払い下げ飛行機を仕入れては、身の危険も顧みず自ら操縦してアメリカに持ち帰り売り捌いた。儲けた金を元手に航空会社を設立する。ロサンゼルスからラスベガス行きのカジノ客を乗せるチャーター便の運行だった。この本が書かれた当時、カーコリアンは三つの航空会社と三つの映画撮影所を所有し、またラスベガスにある「フラミンゴ」「MGMグランド」といった世界最大のカジノリゾートを売買するカジノ王としても知られていた。保有資産30億ドル(1ドル100円として3,200億円)、『フォーブス』の番付で31位にランクされていた(ウィキペディアでは2006年に41位)。アクティ・トラックの60回払いのシュミレーションを見せられ、腕組みして首を傾げている私のような人間が3,200億回生まれ変わってもお目にかかることのできない人だ。

 カーコリアンは1990年からクライスラーの株を買い始めた。一株あたり10ドルだった。今や3,600万株、外部発行済み普通株の約10%を保有しており、残りの90%を買い占めるという計画を立てた。本人はクライスラー会長兼CEOのロバート・イートン(Robert James "Bob" Eaton)をはじめとする経営陣を味方につけての友好的買収のつもりでいたが、話のすれ違いにより「乗っ取り」と捉えられてしまう。そして、即座にクライスラーの反撃にさらされた。結局この買収計画は失敗に終わった。カーコリアン側が資金調達できなかったからだ。しかしその後も、カーコリアンが揺さぶりをかけ続けてきたことからクライスラー側も和解交渉に入る。一年かけてようやく「停戦」というべき協定が結ばれた。

 

この計画に一枚噛んでいたのがリー・アイアコッカである。1979年にクライスラーの会長兼CEOに就任し1992年まで13年間君臨した。後任のイートンに道を譲ったというよりは取締役会から頼み込まれて出ていったようだ。いや、もっと悪く言えば追い出されたようなものかも知れない。引退してもらうために、退職金の積み増しなど大金が支払われた。マセラティとの共同事業(Kカーに何てことを!)やランボルギーニの買収といった経営的に成功したとは言い難い事業にも手を付けていたアイアコッカには目に余る程の独裁的な権力の振るまいがあったに違いない。クライスラーを引退してからは「MGMグランド」の取締役や電動自転車の会社を経営したりしていた。また、ミズーリ州ブランソンという田舎のリゾート地にある劇場にも投資していた。私はブランソンに行ったことがある。セントルイスという都市からレンタカーを借りて数時間かけて辿り着いたことをうっすらと覚えている。ファクトリーアウトレットのショッピングモールとミュージカル劇場が集まるこの町を見た時、風景は異なるけれども「おおっ、アメリカにも熱海や草津みたいな観光地があったのか」と思ったものである。白人の老夫婦ばかり歩いていた。こんな話は関係ない。

 アイアコッカはカーコリアンと手を組み、クライスラーを買収した暁には共同経営者として影響力を行使したかったようだ。だがそれは陽の目を見なかった。それどころかマスコミにより「乗っ取り屋」「ハゲタカ」扱いされてしまった。自身の本『アイアコッカ わが闘魂の経営』そして『トーキング・ストレート アイアコッカ Part②』(徳岡孝夫訳、ダイヤモンド社、1988)の中で投資ファンドに対して痛烈な批判を浴びせていたことがあったから尚更だ。かつてクライスラー時代に出世の道を敷いてあげた元部下達全員からも拒絶されてしまう。新設された「クライスラー・テック・センター・プラザ」はアイアコッカの名を冠する予定だったが、これも撤回された。「クライスラーに不利になるような行動を取ってはならない」という契約に違反したとしてオプションの行使も認めてもらえなくなった。

もう一つアイアコッカの無茶振りが出たエピソードと言えば、1987年の取締役会でアメリカン・モーターズ・コーポレーション(AMC)の買収が決議された一幕が挙げられる。大多数がこの買収に反対した。しかし、アイアコッカはこの決定を覆し買収交渉を続けると宣言した。強引だったとは言え、今考えるとAMCを買っておいて良かったのではないだろうか。「Jeep」ブランドに目を付け入手したのは流石ではないか。あのまま「Kカー」しかなかったらと考えるとぞっとしてしまう。私ではなく世間が。

私がアイアコッカの立場だったら「Jeep」を全部売却しマタドールを復活させている筈だ。「ハマグリ・シルビア(二代目のS10型。アメリカではダッツン200SX)の顧客を奪取せよ!」などと大号令をかけていたことだろう。なかなか動かぬ社員に対して「つべこべ言わずダッジデイトナのボディをマタドール風に仕立てるんだ! さっさとやれ! この忌々しい奴らめ」なんて発破をかけてたりして。私のくだらん話はともかく、当たり前のことで商品に魅力が無ければ消費者はその企業・ブランドを支持してはくれない。1980年代の半ばからヒットメーカーのアイアコッカに取って代わって製品開発の指揮を執り存在感を増してきたのがボブ・ラッツであった。ダッジ・バイパーやプリムス・プロウラー、クライスラーPTクルーザーの開発ストーリーに登場する生粋の「Car guy」である。彼によって1980年代のクライスラーにこびり付いていた退屈な「Kカー」のイメージが払拭されていった。超有名人だからご存知の方も多いかと思うが改めてプロフィールを紹介するとこれが凄い。

 ボブ・ラッツは1932年(昭和7年)、スイスのチューリヒで生まれた。父親の仕事の関係で幼少期をヨーロッパとアメリカの両方で過ごし、11歳までアメリカとスイスの二重国籍を持っていた。1950年代、ラッツはアメリ海兵隊に入隊し戦闘機のパイロットとなる。海兵隊に在籍しながらカリフォルニア大学バークレー校に入学。MBAの取得後、1963年にGMに入社した。GMの海外事業部に8年間勤める間にオペルの販売担当副社長に昇進した。1971年、BMWに販売およびマーケティング担当取締役として移籍する。1974年、今度はドイツ・フォードに移るとヨーロッパ事業そして国際事業部のトップを経て1985年に米国に戻り、フォード・エクスプローラーの開発を率いるなどして副会長の座に就いた。クライスラーへは1986年に移籍している。

ダイムラー・クライスラー 世紀の大合併をなしとげた男たち』によれば、アマチュアレーサーであるラッツの自宅には12台のクルマと5台のバイクがあったそうだ。週末にはジェット戦闘機の操縦を嗜むとはどんな私生活なんだ。通勤は自家用ヘリ。おまけに墜落事故から軽傷で生還している。この本で「自惚れ屋」と書かれているとおり相当鼻につく存在だったのだろう。案の定、アイアコッカとは犬猿の仲だった。結局、アイアコッカはラッツに会長の椅子を譲らなかった。

 

アイアコッカが次期CEOに指名したのはボブ・イートンだった。イートンは1940年(昭和15年)、コロラド州に生まれカンザス州で育った。鉄道の車掌兼制動手の父と美容院を経営する母との間に生まれた。1963年、GMに入社し「Xカー」の主任技術者として頭角を現した。1982年には応用技術担当副社長に就任。1988年、GMヨーロッパ社長に任命される。1992年、29年間勤めたGMを辞めてクライスラーに移った。

クライスラーの収益改善は1994年から始まっている。それに対しては内部の改革と共に「LHカー」とコンボイ顔の新型ダッジ・ラムの発売開始、そして相変わらずドル箱のミニバンの貢献が大きい。当然、時期的に考えるとイートンはそのどれにも関わっておらず、イートンがCEOに就任した後でさえも会社を実質的に支配していたのはラッツだったという。

 

話を買収劇に戻す。カーク・コーリアンがクライスラーの買収意向を表明したわずか四日後、イートンは一本の電話を受けた。声の主は時のメルセデス・ベンツ最高経営責任者ヘルムート・ヴェルナー(Helmut Werner)だった。1987年、コンチネンタルタイヤからメルセデスのトラック部門に転身し、1992年にメルセデス・ベンツのCEOに就任した。その後の在任期間中に丸目ライトのEクラス(1995)、SLKロードスター(1996)、Cクラスのステーションワゴン(1996)を発売し大衆市場にアピールした。セールスとマーケティングの卓越したセンスが認められて社内から絶大な信頼を得ていた。「世紀の大合併」に至る前、メルセデス・ベンツクライスラーとの提携可能性を調査するプロジェクトが存在していた。「Qスター・プロジェクト」と呼ばれるもので、残念ながらその成果は後程登場するユルゲン・シュレンプ(Jürgen Schrempp)に認められず、またクライスラー側でも南米とアジア諸国の実態を目の当たりにし、「クライスラーの独自路線を維持すべき」という結論に至り実現しなかった。

 

当時メルセデス・ベンツそして親会社のダイムラーには悩みがあった。1980年代、ダイムラーAGは多角化戦略の下、行き過ぎた買収が祟り赤字経営に陥った。それは利益よりも成長を追い求めた結果だった。1985年から1995年の10年間で株価は半減し、多角化を推進したエドツァルト・ロイター(Edzard Reuter)会長はダイムラーを追放された。当時のメルセデス・ベンツの販売台数は年間80万台。EC域内12ヵ国の市場シェアは5%に満たなかった。大会社のイメージがあったからこれは意外。80万台というと10年前のスバルの規模である。1980年代末から1990年代初頭にかけてメルセデス・ベンツはスランプに陥り、高級車専念という考え方を改めて世界市場での成長を求めることにした。

クライスラーにも悩みがあった。品質が安定せず、海外での存在感が薄かった。これらがイートンの解決すべき課題だった。さらに、いつまた投資家から敵対的買収を仕掛けられるかわからないという不安を抱いていた。

両社はアジアやラテンアメリカなどの人口が急増する新興国への足掛かりを求めた。それには単独ではなくリスクを共有できるパートナーを必要としていた。とりわけクライスラーにはスリムな組織とコスト削減策を武器に大衆車で利益を上げる手腕があった。メルセデス・ベンツはこれを欲しがった。収益を二倍に増やしたい。収益の25%をアジアから得たい。

 

エドツァルト・ロイターに代わって低迷するダイムラーAGに大鉈を振るったのが「世紀の大合併」の主役であるユルゲン・シュレンプである。シュレンプは1944年(昭和19年)、ドイツ南西部フライブルグの生まれ。地元のメルセデス販売代理店に見習行員として入り、23歳の時にダイムラーに入社。トラックの保証と修理を担当した。1974年、南アフリカへ渡り、アパルトヘイト政策への反対運動が激化する中、米国オハイオ州のトラック部門へ転勤を命ぜられる。その2年後、南アフリカの現地トップとして帰任した。1989年、ドイツ本社のトラック部門のトップに就任する。同時にダイムラー・エアロスペースAGのCEOも兼任した。1995年、ダイムラー・ベンツ会長として合理化、早く言えば人員削減を伴う大リストラを敢行し、35あった内の11事業部門を切り捨てた。

 

私個人から見て、この合併劇から締め出されてしまった二人の人物が惜しい。まずメルセデス・ベンツ側。シュレンプは権力集中を目指した。当時、メルセデス・ベンツダイムラーAG全体の収益の70%、利益の100%をもたらしていた。親会社とは冷めた関係にありグループ内で独立心を保っていた。メルセデス・ベンツ監査役会で決議された事案はダイムラー監査役会で承認を得るという二重構造になっていた。シュレンプはそこに目を付けた。側近と周到に準備をし「効率化」を謳い文句にメルセデスを親会社に統合することをグループ役員に説いた。当然ヴェルナーは反対した。メルセデスのブランドを守るためには独自のアイデンティティとCEOが必要であると反論した。だがそれも虚しく、結局シュレンプの思い通りとなった。ヴェルナーには就けるポストが残されておらずメルセデス・ベンツCEOの座を降りた。

もう一人はボブ・ラッツである。ラッツには「大規模合弁事業は失敗する」という持論があった。アウト・ラティーナ(Auto Latina、アルゼンチンとブラジルにおけるフォードとVW合弁会社、1987年設立)、シトロエンマセラティ(1966年の提携と1968年の子会社化)、フィアットプジョーシトロエンのバン(1981年からのフィアット・デュカトと兄弟車のことかな?)を例に挙げ、「ワールドカーの夢の愚行」と扱き下ろした。また、ラッツはヨーロッパ、特にドイツを自身にとっての第二の故郷とする程、現地に精通しており、ドイツ車の高級感が脆いイメージであることも主張した。ちょっと長いが、『ダイムラー・クライスラー 世紀の大合併をなしとげた男たち』から引用っせてもらうと「実験用の白衣に身を包んだ男たちが様々なものを組み立て、優秀な技術者がほかの誰もが考えつかなかったあれこれの解決策を導き出すといった情景が目に浮かぶ。(中略)さて、いったんBMWメルセデスのような会社の内部に入ってみると、それが実際には正しくないことがわかる。そこにいるのはほかの会社と何ら変わらない技術者、設計者、原価分析者だし、取引先の下請業者はほかの会社と同じなのだ! イメージとはそんなものにすぎない。単なるイメージなのだ」だって。ええっ本当なの?

ラッツは合併交渉に役立たないことを悟られ、とりわけイートンから蚊帳の外に置かれた。ラッツの部下達はラッツに新会社の取締役会に入って欲しかった。ドイツ語で意思疎通を図ることができ、ドイツ式の経営にも精通していたからである。しかしイートンは拒絶した。その頃のラッツは65歳の定年退職を2年間延長し、間もなくその期限が切れるところだった。ラッツはイートンからの退職の願いを聞き入れクライスラーを去った。結果について知る由も無いが、もしもヴェルナーとラッツが互いの領域を尊重しつつ緩やかな提携を進めていたならば違った構図になったかも知れない。二つの大陸の「Car guy」による経営を見てみたかった。

 

1998年5月、「世紀の大合併」が幕を開けた。ところが企業内部の機能統合が本格化する前に、製品づくりで主導的な役割を果たしていたラッツは退職していたし、彼を支えていた優秀な幹部達がそれぞれの理由からクライスラーを去っていた。エンジニア上がりでデザイン部門を率いて「LHカー」、ダッジ・バイパー、ダッジ・ラム・ピックアップトラックなどを世に送り出していたトム・ゲイル(Tom Gale)だけが辛うじて残った。

ラッツの後継者として購買出身のトム・ストールカンプ(Thomas T. Stallkamp)が社長の座に就いたが、メルセデス側の乗用車部門責任者のユルゲン・フベルト(Jurgen Hubbert)とナンバーツーの地位を争うことになった。両者の上にはそれぞれイートンとシュレンプが対等の位置にいる筈だった。しかし実際にはストールカンプはシュレンプに対して報告義務があった。やがてストールカンプがシュレンプの避難の的となり突然イートンを介して退職を勧告されてしまう。

もう一つ奇妙なことが起きた。イートンとシュレンプは共同会長として新会社が軌道に乗るまでそれぞれの組織を運営することになっていた。これは対等合併の証である。イートンの方が先に辞任することが決まっており、そのことを早々と社内に伝えてしまったのである。必然的にイートンの求心力は失われた。イートン自身、部下が役員会で責められる場面があった時でさえ庇うことをしなかった。

実質的にダイムラー側が主導する形となった広報部門でも軋轢が生じた。クライスラー側の広報トップが退職し、側近二人を連れてGMへ移っていった。工学技術部門と製造技術部門のトップ二人もフォードに転職した。

ストールカンプの後釜としてジム・ホールデン(Jim Holden)が任命される。だが、米国市場の動向と競争環境を理解せず無理な利益目標を課すシュレンプに見放されクビを宣告されてしまう。当時のシュレンプはビル・ゲイツジャック・ウェルチに次ぐ名経営者としてもてはやされた。またダイムラーAGの中で絶対的な権力を振るった。シュレンプの戦略が常に正しく、間違っているのはそれを遂行できない人間の方だった。

 

ダイムラー・クライスラーの結末は皆様ご存知のとおり。カッコいいLXプラットフォームのクルマは出てきたけれども中南米やアジアを席巻するような大衆小型車の話はどこへ行ってしまったのだろうか。2007年、ダイムラークライスラー株をサーベラスグループに売却した。ここまで来て、この合併の失敗要因を調べてみたくなり参考になる本を調べてみたが、なぜかまるまる一冊これについて書かれたものが見当たらない。ウェブ上の関連記事を読むと「文化的統合が進まなかった」と結論づけられた記事が多かった気がする。そもそもダイムラー側は吸収合併の意図をオブラートに包みがら話を進めていった。他方、クライスラー側は対等合併のつもりでいた。最初から統治する側と支配される側が決まっていたならば文化的融合もなにも無かったように思える。そして支配する側に独裁的な振る舞いをするトップが就いたならば、従うか従わないか、課された目標を達成するかしないかだけだったのではないか。トップがあまりにも独善的、威圧的な態度を取れば、優秀な人材の中には去っていく人もいるだろうし、イエスマンばかりが残ってしまうだろう。こうなると、いったい会社やブランドを守っているのか経営者の成功神話を守っているのかわけがわからなくなる。これが、この本を読んだ私の感想である。 

 

本田宗一郎は別格として、本田技研工業の歴代社長の名前を順番に言えるだろうか。河島喜好(1973~1983、社長就任期間、以下同じ)、久米但志(1983~1990)、川本信彦(1990~1998)、吉野浩行(1998~2003)、福井威夫(2003~2009)そして伊東孝紳(2009~)と続いてきた。どの方も長い在任期間とカリスマ性を持った人物ばかりだが、「ホンダ=○○さん」といいたような特定の一人のイメージに固定されない。

トヨタはどうか。奥田碩(1995~1999)、張富士夫(1999~2005)、渡辺捷昭(2005~2009)といった創業家以外の方々であっても会社を大きく成長させている。

マツダにしてもフォードの傘下に入ってから4回も社長が入れ替わり、そのせいかカルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)の改革のようなインパクトを残さなかった。フォードの社長が短期で交代していったことに対し戦略の欠如を指摘する人もいるようだが別の見方もある。『マツダはなぜ、よみがえったのか?』(日経BP社、2004)の中で著者の宮本喜一さんは、フォードはマツダ再建のステージ合わせて最適な人物を社長に送り込んでおり、それは一貫性のある戦略に基いて計画的に実行されたものであると主張されている。確かにヘンリー・ウォレス(Henry D. G. Wallace、1996~1997)は財務、ジェームス・ミラー(James E. Miller、1997~1999)はブランド戦略、マーク・フィールズ(Mark Fields、1999~2002)はマーケティングと製品ラインナップの強化、ルイス・ブース(Lewis W. K. Booth、2002~2003)は中期経営計画「ミレニアム・プラン」の達成をそれぞれ担った。そして2008年8月、井巻久一にバトンが手渡された。それ以降、現在に至るまで全て日本人社長により経営されている。フォードは2008年から段階的にマツダ株を売却し、2015年に資本関係は解消された。マツダブランドは生き生きとし、会社は完全復活した。

 

イカコッカは1994年にアメリ自動車殿堂入りを果たしたものの、その後、自動車業界では目立った動きも無く(アメリカでは2000年代にクライスラーのTVCFに出たらしいが私は知らない)、2019年7月2日に生涯を閉じた。今回調べてみて「あー、こんな感じで終わっちゃってたのか」と些か残念である。でも、我々日本人が本田宗一郎に対して尊敬の念を抱いているのと同じように、アメリカ人にはアイアコッカのことを誇りに思って欲しい。そう願う私はアイアコッカを崇拝していたのだから「最も好きなクルマは?」と問われれば、迷わず「はい、ボクは'64 1/2のマスタングです」と答えるべきだが、実際はそうなっておらず、幼稚園の頃から50年近く集めてきたマスタングのミニカーを眺めてみるとマスタングⅡと、こんなに沢山持っててどうすんだというくらい不必要にFOXマスタングばかりである。1/43のダッジ・エアリーズのミニカーがネットに出ていた。いつか買おう。アイアコッカは大衆の味方だからこれでいいのだ。