付加価値のない自動車会

~副題 クルマだらけの間違いづくし~

日本の裏側からエギゾチックカーB面

ある日、武闘派の先輩と理論派の先輩に誘われ一緒に昼飯を食っている時、先輩同士が言い争いを始めた。「俺は、ミツオカみてぇなクルマ絶対に認めねぇ。やっぱ本物のヴィンテージ車だろ」と武闘派の先輩。「俺はミツオカみたいのでもいいと思うけどねぇ。雰囲気を楽しみたい人だっているからね」とは理論派の弁。私はというと、「そんなことよりもBUBU50シリーズっていう『ゼロハンカー』があって、最初のうちは原付免許でも乘れたんだけど、そのうち道路交通法が...」と自陣に引き込もうとしたものの、自分を守ることがまず第一。「いや~、どっちもイイんだなー、これが」だって。

心の声は0対100で光岡自動車の圧勝。だいいち駐車場などでインプレッサカサブランカカローラⅡのナポリウインディ モデリスタPX12)なんかを見つけると周囲をぐるーっと一回りしているんだから、光岡を否定したらおかしいことになる。そもそも、20代の頃、アメリカの『KIT CAR』という雑誌も時々買っていたぐらいだ。(廃刊になっちゃったのかなぁ?)キットカーと言えば、VWビートルのシャシーグラスファイバー製のボディを被せたものが一般的。中でもアメリカのブラドレー(Bradley)、同じくアメリカのマンタ・カーズ(Manta Cars)そして厳密にはキットカーと言えないが、ブラジルのプーマ(Puma、昔は「ピューマ」と呼ばれていたからなんか今更「プーマ」なんて恥ずかしくて言えない)の3メーカーのモデルのスタイリングの美しさは何とも言い難い。

こんなクルマくん達のことを知りたければ、二玄社さんの別冊CG『自動車アーカイヴ』を読むがよい。「Vol. 10 70年代のアメリカ車篇」「Vol. 12 80年代のアメリカ車篇」そしてVol. 9とVol. 15の諸国車篇に詳しく解説されているから嬉しい。あんなマイナーなクルマの情報をどのようにして収集したのか不思議だ。編集部さんには頭が下がる思いである。

先に挙げた3社のクルマをなぜか子供の頃から知っていた。特にピューマは記憶に深く刻まれている。幼児向けのクルマの本の「そのほかのくにのスポーツカー」に載っていたのだろうか。山本圭亮さんという方の「週刊中年フライデー」というブログを拝見すると、当時チェッカーモータースさんが正規輸入されていたそうです。なるほど。先日久しぶりに実家に帰ったところ、お母さんに70年代の『輸入車ガイドブック』全部捨てられていた。今ごろチリ紙になって人様の大事な...。これでは当時我が国に輸入されていたモデルを調べようがない。

ブラジルはセナの国。モレノさんの国。そしてフィッテイパルディ一族、ピケを輩出した国だ。クルマ好きなら興味がある。ポルトガル語を独学している時、学習意欲を高めるためにはクルマだ、ということで入手したのが『PUMA Seus Modelos e Historia』(Books on Demand GmbH, Norderstedt、2001)だ。著者のThomas Braunさんという方はドイツ人のピューママニアのようで、原作はドイツ語の本らしい。英語版が存在しないようでアマゾン(「地球の肺」の方じゃないよ。アマゾントットコハムの方)で入手できたのはポルトガル語版だ。題名を直訳すると「ピューマ そのモデルと歴史」である。

ピューマの創業者ジェナーロ・マルツォーニ(Genaro "Rino" Malzoni)は両親に連れられ8歳の時にイタリアから渡ってきた移民である。サトウキビの農園主として成功を収めると共に、弁護士であり、アマチュアレーサーでもあった。1961年、クルマ好きの友人の影響を受けてロードコース専用のスポーツカー製作に着手した。ベースはDKW。正直に話そう。見たことも聞いたこともないメーカーだ。こんな名前を付けるのはドイツ人だろうという推理から始めなければならない。ドイツ車はじめヨーロッパのクルマにまるっきり興味が無い人間にとってDKWの歴史を遡っていくのはこりゃしんどい。しかしドイツ車愛好家にとってはドイツ車の歴史を語る上で、いや世界の自動車技術史を語る上で欠かせない一社だからウィキペディアコピペというどんな汚い手を使ってでも素通りしていくわけにはいかない。

DKWについてざっくり語ると、第一次世界大戦前にデンマーク人によって創業され、終戦後2ストロークエンジンのバイクで世界最大の二輪メーカーへと成長した。アウディを傘下に入れ、1930年代になると2ストローク並列2気筒のFF車を開発し、世界初の量産FF車メーカーとなった。このあたりについては、これまた良書の武田隆さん著、『世界と日本のFF車の歴史』(グランプリ出版、2009年)に詳しく書いてあるので読んでね。アイアコッカの「K-car」も出てくるよ。

マルツォーニがベースにしたのは、地元資本のVemagという会社が生産していたDKWのノックダウン版。Vemaguetという名前の4ドアセダンで、おそらく1960年から搭載された1,000ccエンジンのクルマにファイバーグラス製のクーペボディを被せたものだ。(ベースはDKW 3=6というものらしい)マルツォーニはこのクルマに自身の名前を与え「DKW Malzoni」とした。ウィキペディアによると、マルツォーニのプロジェクトはDKWのワークスチームだったようだ。これが後にピューマへと発展した。ブラジル政府からの統合の圧力もあり、1964年からVWブラジルがDKWの株を買い増し始め、1967年にはDKWを傘下に納め、DKW車の生産は徐々にVWのモデルに取って代わられた。ふぅ~。ウィキさんごっつぉつぁんです。

前の会社で「君の話は枝葉ばかりなんだよな」と言われてきたので、じゃあ幹の部分を話そうじゃないか。色々と派生モデルはあるが、主要車種の紹介コーナー。

<2座席スポーツカーの我々が知っているピューマのタイプ>

DKW Malzone GT:1965~1966、1964年にマルツォーニが設立した最初の会社のモデル。

DKW Puma GT:1966~1967、1966年に会社を設立し直し社名もPumaに変更。

Puma GT:1968~おそらく1972まで、このモデルからシャシーはカルマンギア。

Puma GTE:1973~1975、クーペをGTEと呼ぶようだ。シャシーはカルマンギア。

Puma GTS:1973~1976、オープンモデルをGTSと呼ぶようだ。「スパイダー」の意味かな? シャシーはカルマンギア。

Puma GTE:1976~1980、鉄バンパーが付いたクラシカルな雰囲気はあまり変わらないが、シャシーがブラジリアに切り替わり第二世代となる。

Puma GTI:1980~1984、クーペをGTIと改称したようだ。樹脂バンパーとなりスタイリングがやや現代的に変わる。

Puma GTC:1980~1984、オープンモデルをGTCと改称したようだ。「C」はコンバーチブルを指す。

Puma P018:1981~1985、ボディデザインに変更を受け、リアエンドは見ようによってはテスタロッサ風でカッコいい。同社閉鎖前の最後のモデル。

Puma AM1:1987~1989、製造がAlfa Metais社(英語だとAlfa Metals)に移った。P018の後継車であるが、ほぼそのままに見える。クーペを1と呼ぶようだ。

Puma AM2:1987~1989、オープンモデルを2と呼ぶようだ。

Puma AM3:1989~1992 or 1993、AM1の後継車。クーペを3と呼ぶようだ。基本的には最終モデル。

Puma AM4:1989~1992 or 1993、AM2の後継車。オープンモデルを4と呼ぶようだ。基本的には最終モデル。

<日本人に馴染みの無い2+2のGTカータイプ>

Puma GTB:1973~1978、GMブラジルのシボレー・オパラのシャシーにロングノーズのファイバーグラス製のボディを被せたマッスルカー風情のクーペ。顔つきが豪州ホールデン・モナロというか米国シボレー・モンテカルロのようで超カッコいいぞ。エンジンは4.1リッターの直6OHV。もう買うっきゃない。

Puma GTB-S2:1979~1984、ボディが一新されて、セレステ風のボディにジャパン前期型のお顔をぶち込んだものだからカッコいいに決まっている。これも買わないと。

Puma AMV:1987~1992、製造がAlfa Metais社(英語だとAlfa Metals)に移ったら、顔がブサイクになってしまった。

 こうしてみると、ピューマは決してゲテモノではなく、レース活動をしていた人物が真面目に作ったスポーツカーである。「プアマンズ○○」などと揶揄する人は居るかも知れない。だが、モータースポーツの世界でしのぎを削れば自ずとマシンのスタイリングも似てくるのではないだろうか。なんと言っても、レースやスポーツカーを愛するマルツォーニの思想がスタイリングに現れているようだ。カッコよくなってしまうのである。

その他、この本にはスペシャルモデルも数多く掲載されている。ライセンス生産をしていた南アフリカ製のピューマにも多くのページ数が割かれている。ピューマ社が、マイクロカーやキャンピングカー、果てはキャブオーバー型の4トン車、6トン車まで作っていたことを知っている日本人は少ないであろう。「映画に登場するピューマ」と題したコーナーや、ミニカー、子供用のバッテリーカーも登場する。ブラジルでのDKWとVWの事業活動についての章もあり至れり尽くせりだ。著者の愛を感じる一冊である。生産や輸出実績の表もある。これによるとアメリカ合衆国には延べ約1,000台が、欧州には100台が輸出された。残念ながら日本への輸出に関する言及は見られなかった。チェッカーモータースのエピソードがあればより面白かっただろう。

ブラジルに行って、ピューマの集いをはじめブラジル産旧車のカーショーを巡ってみたいもの。しかし、ブラジルの情報を得ようとするあまり、『シティ・オブ・ゴッド』などという、ファヴェイラ(大都市に多いスラム街)のマフィアを題材にした映画や、NHKのBSで一週間に一回だけやっているブラジルのニュースで市街地での銃撃戦の様子ばかり見ているから、治安の悪さが刷り込まれてしまい怖くて行けません。これは本当に聞いた話だが、日系人でさえも強盗に遭うくらいだから、私などは空港から一歩出た瞬間に身ぐるみ剥がされてしまうに違いない。ちゃんと男性用下着を身に着けていかなくちゃ。ウフッ♥️。

日本に住んでる日系ブラジル人の方で、ブラジルdomestic旧車のファンの人はおらんかね。こういう人に連れてってほしいなぁ。そうだ!ブラジルとクルマと言えば、ゴーンさんもレバノン系ブラジル人移民の子孫でブラジル生まれだ。つい先日のゴーンさんのあの姿で行けば大丈夫じゃないか?