付加価値のない自動車会

~副題 クルマだらけの間違いづくし~

22世紀に間に合わんなこりゃ。

昨今、電気自動車のニュースが騒がしい。「イギリス 2030年までにガソリン車とディーゼル車の新車販売を禁止する方針を発表」とか「EU 2035年以降の新車販売においてハイブリッド車を含むガソリン車やディーゼル車の販売を実質的に禁止する方針」等々。ホンダは2040年にグローバルで電気自動車、燃料電池車の販売比率を100%にする方針を掲げた。2021年12月14日にトヨタが「バッテリーEV(BEV)戦略に関する説明会」を開催して以降、益々拍車がかかり電気自動車の話題が連日ニュースを賑わせている。HV車ではトヨタに勝てるわけないし、圧縮着火のガソリンエンジンという素人の私から見たらあり得なさそうなものまで日本は進んでいるようだから(マツダ)、もう世界は内燃機関を諦めたか。電気自動車への買い替えムードが一気に高まってきた時、選りどりみどりのラインナップは用意されているだろうか。十分な数のBEV車は中古車市場に出回っているだろうか。

免許証の自主返納を考える歳になるまであと20年くらいは運転できるだろう。もうかれこれ16年16万キロ近く乗ってきたホンダ・エディックス(BE1)がこの先20年もつとは思えない。何か致命的なトラブルに見舞われたらどうしようかと常に気を揉んでいる。乗り替えるにしてもHV車は単なる食わず嫌いという理由で欲しいとは思わない。軽でもいいけれどもう少し車格が大きいクルマに乗りたい。それでいて燃費の良い普通車は無いだろうか。

日産ラティオ(N17)はどうかな。マーチと同じくタイ国での生産と聞いている。元々ホンダ・フィット・アリアのような新興国車はウエルカムな質(たち)だ。ラティオはあのスタイル、あの車格でもってターボ無しの1,200ccと知ってちょっとびっくりした。`70年代のファミリーカーみたいだ。3気筒エンジンっていうのもシャレードか。でも今は1気筒あたり400cc程度の排気量が最も燃焼効率的に有利だと『モーターファン・イラストレーテッド』第174号「直3 vs 直4」(三栄、2O21年4月28日発行)に書いてあった。なんだ私が知らなかっただけで3気筒は世界的潮流だったのか。

ラティオについてのネット口コミを読むと、内装が安っぽいプラスチックだの低グレードにはトランクオープナーレバーが付いていないなどと酷評されているみたいだけど、日産・ADバン/NV150ADのような装備・内装のクルマが好きだし、若い頃に乗っていた`81 シボレー・インパラの低トリム車にもトランクオープナーは付いていなかった。今乗っているエディックスのリモコンキーが壊れてしまってからは(クルマって色んなところが壊れるんだね)いちいち鍵穴を使ってドアを開けている。もうこれにも慣れた。一般ユーザー向けの最低グレード「S」でも更に装備が簡素なビジネスユース向けの「B」でも私はラティオと共に生きて行ける。

一度買ったクルマは余程大きな故障でもしない限り長く乗るつもりだから日産・ラティオが人生最後の愛車になってもおかしくはない。しかしEV車への買い替えを促そうと純エンジン車の税金を不当に高く吊り上げるなんてことを政府はやりかねない。もう一回純エンジン車でいいのか迷うところ。

一年前、2012年式のスバル・サンバーがベースのキャンピングカー、アウストラ社の「キャンビー」を買った。それ以来、週末は殆どこのクルマで出掛けるようになった。 週末だけで450km~800kmくらい走り、一年でオドメーターの距離は24,000km進んだ。高速道路もよく使う。エンジン回転数を低く抑えるためになるべく80km/hで走っている。一番左側の走行車線オンリーの走り方にすっかり慣れてしまいエディックスで高速に乗った時も80km/h~90km/hで走るようになった。サンバーが来てからエディックスは完全に通勤専用車化した。一日10km~30km、週に多くても150km程度しか走らない。エディックスで高速道路を使うのも月に一回程度。高速に乗っても80km/h~90km/hで巡航しているだけ。こんな使用実態ならば電気自動車でもなんかいけそうな気がしてきた。BEVなんてあり得ない選択肢だと信じていた自分にも心境の変化が現れ始めたのである。

アーリーアダプターとは真逆のくせに、なぜか昔から電気自動車が好き。エコとか何とかよりも単に変わった乗り味のクルマに興味があるから。1990年代~2000年代にかけても静かな電気自動車ブームがあった。環境省らが主催した「エコカーワールド」や日本EVクラブの「全日本EVフェスティバル」に出掛けたり、2010年代に入るとJEVRA(Japan Electric Vehicle Race Association = 日本電気自動車レース協会)のレースを観に袖ヶ浦フォレストレースウェイ筑波サーキットを訪れた。8輪インホイールモーター駆動、最高時速370km/hで話題になったスーパー電気自動車「エリーカ」の特別展示イベントで実車を目にしたこともある。(そう言えば関係ないけど「エコカーワールド」に天然ガスエンジンのスバル・レガシィが置いてあったな)

なので書店でEV関連の本やEVの特集が組まれた雑誌を見つけるとついつい買ってしまう。改めて自宅の本棚を眺める。ここ数年でこんな本を読んでいたんだなぁ:

VWの失敗とエコカー戦争 日本車は生き残れるか』(香住 駿、文春新書・文藝春秋、2015)、
『EV新時代にトヨタは生き残れるのか』(桃田 健史、洋泉社、2017)、
『日本 vs アメリカ vs 欧州 自動車世界戦争 EV・自動運転・IoT対応の行方』(泉谷 渉、東洋経済新報社、2018)、
『EVと自動運転 クルマをどう変えるか』(鶴原 吉郎、岩波新書岩波書店、2018)、
『2022年の次世代自動車産業 異業種戦争の攻防と日本の活路』(田中 道昭、PHPビジネス新書・PHP研究所、2018)、
『2030 中国自動車強国 世界を席巻するメガEVメーカーの誕生』(湯 進 タン・ジン、日本経済新聞出版社、2019)、
2035年「ガソリン車」消滅』(安井 孝之、青春新書・青春出版社、2021)、
『日本車は生き残れるか』(桑島 浩彰・川端由美、講談社現代新書講談社、2021)

雑誌も色々とある:

週刊東洋経済 2017年10月21日号「日本経済の試練 EVショック」、
週刊ダイヤモンド 2017年10月21日号「パナソニック トヨタが挑むEV覇権」、
日経BPムック 2018年4月23日号 『日経ビジネス まるわかりEV電気自動車』、
週刊東洋経済 2021年10月9日号 「自動車立国の岐路」、
日経マネー2022年1月号臨時増刊 『日経ビジネス総力特集 徹底予測2022』内「EV覇権 欧州の野望 VW, テスラ, トヨタの頂上決戦」、
週刊エコノミスト 2022年1月18日号 「EV & 電池 異次元の加速」

『首都感染』(講談社、2001)の著者、高嶋哲夫さんが書かれたビジネス小説『EV イブ』(角川春樹事務所、2021)も読んでみた。

ビジネス書誌なので当たり前のことだがCASEとかMaaSとかシェアリングエコノミーとかIoT、AIのビジネスモデルの話ばっかだ。情けない話、こんなに沢山読んでても内容全然覚えておらず。最初から分かった上で買っているけど「モノ」の話はどこ行ったんだ。とは言え、様々なEV車を新旧交えて紹介してくれている『E-MAGAZINE』(ネコ・パブリッシング)の第3号がなかなか出てこない。そんな中、『家電批評』(普遊社)2021年5月号に「最新電気自動車グランプリ2021」の特集が組まれていることを知った。運良く最寄りのブックオフさんで見つけることが出来た。今の日本で買えるEVを比較した有り難い雑誌。但し未だEVのラインナップが少ないから日産・リーフと1,200万円近くするポルシェ・タイカンが同じ土俵で比較されており、この点、私には意味がない。まあ仕方がないか。それでも今年版の特集号を待ち望んでいる。刊行されたら絶対に買うぞ。

数あるEVのビジネス本の中で異彩を放つ二冊を紹介したい。
一つ目は『EV(電気自動車)推進の罠 「脱炭素」政策の嘘』(加藤 康子・池田 直渡・岡崎 五朗、ワニブックス、2021)。
もう一つは『EVガラパゴス』(船瀬 俊介、ビジネス社、2022)。
「罠」の方はBEVオンリーには反対の立場。他方「ガラパゴス」の方はBEV全面切り替え推進派と意見は正反対。詐欺だ、デマだ、ミスリードだ、プロパガンダだ、陰謀だと過激な言葉が飛ぶ。「罠」も「ガラパゴス」のどちらもお人好しの日本人を欧・中・米が仕掛けた罠から救いたい。日本人が築き上げてきた世界一の技術をもって世界に挑めよとエールを送っている点では同じ。但し、アプローチは真逆である。「こっちは好き」「あっちの話など聞きたくない」と好みが別れるところであろう。でもどちらもファクトと一般論的な展望だけでなく著者の強い主張に溢れているから他の本よりも断然に面白い。職場では「ミスター事なかれ主義」の名を欲しいままにしていた私は「罠」と「ガラパゴス」の両方に感化され益々どっち付かず。特に「ガラパゴス」に対しては、そんなに悪意に満ちた言葉遣いでなくても良かろうと思う反面、この本の著者は30年も前に『近未来車EV戦略 電気自動車(エレクトリック・ビークル)が地球を救う』(三一書房、1993)を著していて早くから次世代EV車で世界をリードする必要性を懸命に説いていたことを知っているだけに同情もある。

私もこの本を持っていた。2000年頃に神田神保町書泉グランデさんで購入したものだろう。20年ぶりにこの本を開いて驚いた。同書の表紙を飾る「IZA(アイゼットエー)」は当時の環境庁・国立環境研究所、東京電力、東京R&Dが共同開発した次世代EV車。Eセグメント級のボディサイズを持つ4人乗りの2ドアクーペである。性能が凄い。40km/hという定速条件であるならばワンチャージの航続距離は548km。100km/hでも270kmを達成。これならば都心部で暖房をガンガン効かせながら手荒く使ったとしても100km~150km、初代リーフと同じくらいの航続距離は果たせたかも知れない。ニッケルカドミウム電池(鉛ではない!)を搭載し4個のインホイールモーターを駆動する。回生ブレーキもついている。PS、PB、PWは当たり前。SONYのオーディオとヒートポンプ式のエアコンまで装備されているから驚きだ。白い流麗なボディはCd値0.19(Wikipediaには0.198と書かれている)。その白くて流麗なボディはGMの同時代の電気自動車「インパクト」よりも長く低く伸びやかに映り、今見てもステータスシンボルと成り得るカッコ良さがある。価格付けと上手いマーケティングによっては、今のTeslaのポジションが取れていたかも知れないと想像する。デカプリオやシュワちゃんに乗って欲しかった。勿体ない話である。

またクルマだけでなく、当時の先進EV研究開発者達はモビリティのあり方についても現在起きている殆どのことを30年前から的確に予測していた。著者から見れば、世界のEV市場における今の日本のポジションを見て残念で仕方が無いのであろう。

「モノ」の本と言えば、『電気自動車 EVウォーズ』(永井 隆、日本経済新聞出版社、2018)は読み応えがあった。主にNECラミネート型リチウムイオン電池とそれを積む初代日産・リーフの開発ストーリーを中心とするビジネス書だ。所々小説仕立てで物語は展開してゆく。NECマンガンラミネート型電池の技術的ブレークスルーに挑み、日産は他車のプラットフォームを流用することなく一から車台を開発し電気自動車の本格的な量産ラインを軌道に載せた。これを読むとリーフは大きな困難を乗り越えて産み出されてきたクルマだということが良く判る。EVの本格的な量産車は世界初のことだから尚更だ。決して外からコンポーネンツを仕入れてきて組み立てられただけのクルマではないのである。改めてこの本を二回も読んだ。それから初代リーフにぐっと親近感が湧いてきた。

気になり出すともっと知りたくなる。初代リーフの開発ストーリーを描いた本を探してみたがどうやら発売されていないようである。『ニューカー速報』のようなものも初代リーフには見当たらない。仕方がないから『モーターファン・イラストレーテッド』のバックナンバーを古本屋で見つけては初代リーフの記事がかかれていないかをチェックしている。今のところ、vol. 37「電気自動車のテクノロジー」(2009年11月29日発行)とvol.55「電気自動車の基礎と日産リーフのテクノロジー」(2011年5月29日発行)が見つかった。

初代リーフには乗ったことがある。10年程前、沖縄県宮古島に遊びに行った時のこと。レンタカーの予約にモタモタしていたらリーフしか残っていなかった。半分は「面白そう」という期待。もう半分は「大丈夫かコレ?」という心配。電気式パーキングブレーキが付いていて「面倒くせぇなぁ、普通のでいいのになぁ」とぶつぶつ言っていたのを覚えているから借りたのは最初期型(24kw/hのZEO)だ。宮古島をぐるっと一周しても100kmくらいの道のりだからあまり心配する必要はないのだが、残り航続可能距離の表示が100kmを切るともうびくびく。島には真冬に訪れた。真冬でもヒーターを効かせるほど寒くはない。それなのに残りの航続距離に怯えながらのドライブ。「あーだめだこりゃ」と結論付けた。面白いけど自分にとっては実用性ゼロ。充電スタンド中心市街のイオンショッピングセンターの中にあった。風力発電で作られた電気を無料でチャージできた記憶がある。今はどうなっているのかな。

その後、初代リーフには30kw/hのバッテリー容量を持つ後期型(AZEO)が発売された。これを選べば少しは安心だろう。残念ながら私は集合住宅住まいで充電する時は全面的に急速充電スポットに頼らざるを得ない。仕事で間接的にEV向け二次電池に携わっているから急速充電はなるべくしない方がよいことは理解している。しかしこれについては仕方がない。意識してみると自分の住んでいる街にも結構な数の充電スポットがあるものだ。まず家からクルマで3分のエリアに二軒の日産ディーラーがある。15分圏内に充電スポット付きのファミリーマートが二軒あった。10分で行ける最寄りの道の駅にもある。そして何よりも週に2~3回通っている地場系スーパーの駐車場の片隅にもあったことを思い出した。食料品・日用品を買い、同居する本屋さんと100円ショップに立ち寄るだけでいつも20分~30分は軽くかかってしまう。その間を利用すれば時間を持て余すこともない。でも、その充電器が使われているのを一度も見たことがなく、設備更新のタイミングで撤去されてしまったらどうしよう。ちょっと心配である。

意識すればするほど初代リーフが愛しくなってきた。充電中のオーナーさんに突撃ルポし、実際に使ってみてどうなのかを伺っている。対応する側は「うぇ、ジジイ面倒くせぇ」と感じているに違いない。2014年に出た『間違えないでエコカー選び③ 日産リーフBMW i3』(福田 将宏監修、フォーイン編著、フォーイン)という本を買ってみようかと思う。何よりもリーフの偉かったところは、台数的にもボリュームゾーンで、優れた競合車がひしめく激戦区のCセグメントで勝負しようとしたところだ。この心意気には拍手を送ろうではないか。マイクロカー(日産もハイパーミニをやってたけれども)や官公庁向けの台数限定車やリース限定などでお茶を濁さずに100年進化し続けてきた内燃機関車と同じ土俵に立ち、無謀とも言える戦いに挑んだのである。異なる戦略を採ったトヨタの言い分も理解できるけれども、ありとあらゆるバリエーションの商品を持っているのだから正しいとか正しくないとか言わずに消費者の選択肢の一つとしてリーフに真っ向からぶつけてくる完全電気自動車があってもよかったと思う。昔のトヨタだったら日産が出してくるモデルの対抗馬を作っていただろう。この10年間の日産リーフの孤軍奮闘ぶりが惜しい。

プリウスが切り開いたトヨタHV車の世界累計販売台数1,500万台(2020年、トヨタ欧州部門による発表)の偉業は文句なく凄い。でも日産・リーフ世界累計販売台数50万台(2020年12月、日産発表)だって大したものだ。しかも火災事故ゼロ。数の上ではプリウス圧勝だが、だからと言ってリーフは負けでも失敗でもない。

プリウスについては開発秘話を描いた『ハイブリッド』(木野 瀧逸、文春新書・文藝春秋、2009)などの本が出ている。前述のとおりリーフにはそのような本が見当たらないのである。『EVガラパゴス』を読むと、リーフを評価しない、させない空気でもあったのかと勘繰ってしまう。だから初代リーフのファン(あんまりいないと思うけど)にはぜひとも『電気自動車 EVウォーズ』を手に取っていただきたい。

今後、各社からどんどんBEV車が発売されると初代リーフの値段はどうなっていくのであろうか。セグ欠けの極初期のモデルを除き、比較的高年式のものは100万円前後の値が付いている。最新モデルとくらべて航続距離が短いから売れずに安くなるのか、それとも「EV」というだけで重宝されて値段は高止まりするのか。もしくは外国人に買われてしまい我が国の中古車市場からリーフは姿を消してしまうのか。そうならない内に手頃な価格で程度の良いものを手に入れたい。

「今ごろ初代リーフかよ。2022だぞ」とツッコミが入ってもおかしくない話だが、まずはトミカのリーフ集めからスタート。ミニカー売り場が充実しているオフハウスさんに行ったら青の初代リーフが大量に売り捨てられていた。そんな中からコンディションばっちりの3台を救出。その後も白とか赤とか見かけると集めてしまう。トミカ「テコロジー」シリーズの黒もあるようだ。ライトが光るんだぜぇ。テーブルの上がビッグモーターの後ろの方みたいになってきた。こんなに集められてボクちゃん幸せ。いや待てバカヤローだ。よい子のみんな、これはそこらのブーブーじゃないんだからね。「やかましいぞ歯っ欠け。セグ欠けでも乗ってろ! 」アーリーアダプター様のご子息達は弁が立ちますこと。

 

やりなおしキャンピングカー(聞き手はいない報告義務はない。進捗)

ここは茨城県筑西市の結城自動車さん。スバル・サンバーがベースのキャンピングカー、「アウストラ・キャンビー」はめでたく納車の日を迎えた。社長さんが見送ってくれる中、下の息子(ヘンな意味じゃないよ)を助手席に乗せ店を後にした。

数百メートル走ったところで息子と私は顔を見合わせて大声で笑ってしまった。キャブオーバースタイルのクルマだからフロントガラスの真下に路面が迫り新鮮だ。なんだかガラス窓が走ってゆくみたい。それにしてもすごい振動と揺れようである。路面の継ぎ目や凹凸をいちいち真面目に拾い上げゴツゴツと下から突き上げてくる。これにはビックリ。商用車に乗ったことがないわけではないが、軽トラや軽商用バンの乗り味というのはこういうものだったのか。

足元には剥き出しのステアリングシャフト。ビニール傘の先端のようなか細さでなんとも頼りない。まるでペダルカーのようだ。見えないだけで、どの軽自動車もこんなものなのか。左足ブレーキができない。シャフトが邪魔してる。

私のサンバーはNAの3ATである。早々とサードに入ったらもうそれで終わり。だから、なんだか常にサイドブレーキを引き摺りながら走っているというか、エンブレが利いているというか、奇妙な感覚に陥る。いつも「あれっ、おかしいな4速にシフトアップしないぞ」と勘違い。3ATなんだからあたりまえだろ。もう1段上にあるような気がしてならないが、そんなわけはない。

キャンピングカー雑誌には、軽トラベースの「キャブコン(=キャブコンバージョン)」タイプのオーナー手記が載っている。「非力で上り坂がつらい」という声をよく耳にする。私のはあまり架装していないバンタイプであるにもかかわらず、これまた遅い。ただし、高速道路や4車線化されている幹線道路を巡航している分には多少の上り坂が来てもあまり問題はない。困るのは傾斜のきつい山道なんかでの話である。それでも県道を走っていて後ろに乗用車がついた時には気を遣う。上り坂が見えると、手前の平地や下り坂で勢いを付けてから上り坂に入るようにしている。坂が続く。だんだんと時速50kmを維持するのが厳しくなってくる。そんな時はエンジンがかわいそうだけどキックダウンするしかない。しかし高回転音に変わるだけで一向に加速しない。だから急いでそうなクルマやバイクが後ろに来たら道を譲り先に行ってもらうことにしている。

高速道路もずいぶんと走った。エンジンの回転を上げないように左車線限定でのんびりとゆく。大きなサービスエリアが近付くと左のSA進入車線からもびゅんびゅん抜いていきやがる。後続車がいなければ75km/h程度に抑え、トラックが近付いてくると迷惑にならないよう一瞬だけ90km/hまで上げ、追い越してもらったらまた75km/hに戻す。その繰り返し。赤帽のサンバートラックや「Dias」と思わしきサンバーがスイスイと私の右横を過ぎ去ってゆく。「きっとスーパーチャージャー付きかな」「5速車かな」などと想像しながら自分はマイペース。いつも普通車で走っている道のりが遠く感じる。まだこんなところかと。一般道ではリッター14kmくらいの燃費が高速だと12km台に落ち込んでしまった。フツーとは逆である。だがそれでも軽自動車の高速料金はおトクだし、のろまでも旅した気分をより味わうことができるのはこちらの方だ。

こんな「動くシケイン」みたいなことばかりだと、こちらも鬱憤が溜まる。ストレスの捌け口を探しに下道へ。一般道で「KATO」や「TADANO」なんかのロゴを見つけては、シグナルグランプリをしかけ自走式クレーン車を置き去りにしてくれよう。1台ちぎるごとにボディに☆のマークを刻んでやりたいが、歳は間もなく50代の半ば。子供じゃないんだと自分に言い聞かせ、ここはおとなしくキキララのシールを手帳に貼るだけにしておく。

 

私のはキャンプ用キャンピングカーではない。「サーキットに草レースを観に行く用」キャンピングカーなのである。コロナのこともあるから、まだ車中泊するほどの遠出はしていない。先日、ツインリンクもてぎで開催された「もてぎチャンピオンカップレース」の第2戦を観に行ってきた。ここは自宅から下道で30分とかからない。これはこれで相当幸せな話だ。ずっと昔に「インディジャパン300」を観戦した時、コースサイドをキャンピングカーで陣取るリッチな人達を見て羨ましく思った。オーバルレースは開催されなくなってしまったけれども、いまだに「ロードコース コースサイドキャンプ駐車券」という名前でキャンピングカーサイトの提供をしていて、「全日本ロードレース」や「SUPER GT」などのビッグレースになると土・日を通してコース脇にクルマを駐めてレースを観戦することができる。私が出かけるのは「観戦はご自由に」という地方選手権だから、一名ならば入場料大人1,200円と駐車料金1,000円の計2,200円を払うだけで一日中レースを楽しめる。レース参加者の身内しか観てなさそうな感じで、どの観客席も人はまばらである。当然、コースサイドキャンピングカーサイトもガラ空きだった。私は「S字カーブ」から「V字コーナー」を見渡せるフラットな高台に陣取ることができた。

ダウンヒルストレート」の脇の土手にも駐められるが、けっこうな勾配のある坂の途中なのでひょっとしたら駐停車禁止場所かも知れないし、クルマの姿勢が悪いので降りないとちょっと見づらいかも。近くにトイレと駐車場があるのでそちらに駐めて観戦することをおすすめする。

別にどんなクルマでも実現できることだが、キャンピングカーサイトにキャンピングカーで乗り付けてレースを観る。これは格別の気分だ。総費用45万円の月賦払いだとしてもだ。レースとレースとの間の準備時間に社内でうたた寝ができるし、食料と飲み物を積んで、ちょっとしたピクニック気取りが楽しめる。レース終盤、夕立に遭った。しかし雨降る中でも車内にいながら最終レースまでしっかりと観ることができた。

次は「もてぎロードレース選手権」でも観に来るか。せっかくのキャンピングカーなのだから、いつかコロナ禍が落ち着いたらサービスエリアや道の駅で前泊しながら少し羽根を伸ばして、埼玉県の本庄サーキット(GOLDEX本庄モーターパーク)、栃木県の丸和オートランド那須や日光サーキット、千葉県の袖ヶ浦フォレストレースウェイ茂原ツインサーキットなどにも出かけてみたいと思う。

 

私は幼少の頃からアメリカ車のファン。しかもスポーティーな車種ではなくフルサイズクーペやフルサイズセダンに憧れた口。排気量がデカけりゃデカいほどいいというわけではないが、大きなエンジンのクルマを低い回転数でゆったりと転がすのが好きだ。高速道路を90km/h~100km/h、2,000rpm以下でクルーズさせるのが私にとっての快感。フワフワなサスと長いホイールベースがあると嬉しい。

今はアメリカ車を維持する経済力がないから、代わりに国産車ホイールベースが長めのクルマにはどういうものがあるんだろうとインターネットで調べていたら、「greeco channel」というデータベースサイトを見つけた。「ホイールベースが大きい国産車・日本車ランキング」というページに約1,000件、10件表示で110ページ分も掲載されていた。しばらく見た後で最もホイールベースが短い車種を調べてみようと最終ページにジャンプしてみたら、なんとサンバーと同じ1,885mmのスバル・ドミンゴ(FA8)がケツから2番目に入っていた。おお、2mを切っていたのか。それを知って改めて真横からサンバーを眺めてみると本当に短い。トロッコみたいだ。

このデータベースには100km/h巡航時にエンジン回転数が低いクルマ順のランキングもあった。国産車すべてを含めると3,000件を超えてしまうので軽自動車だけを調べてみた。「時速100kmの回転数が低い 軽自動車ランキング [軽・全車種]」の中でも最終ページを飾るのはサンバーであった。

「ロングホイールベース」と「高速道路での低回転」という基準からクルマを選択したい私にとってサンバーは最も遠い存在。キャンピングカーでなければ買うことはなかっただろう。そのキャンピングカーにしても知らない人から見ればただの小口配送車か貧乏くさい車中泊用のクルマに映るだろう。それでは買ったことを後悔しているかと訊かれれば、全くその逆で最高に満足している。

今はサンバーが可愛くてしかたがない。週末用として購入したけれども、仕事が早く終わった日にはわざわざサンバーに乗り換えてから市営の温泉施設に出かけているほどである。いつでも気兼ねなくさっと乗り出せるキャンピングカーこそまさに私が求めていたものだった。こりゃかなりいいぞ。

途中の坂道。後続車につかれると「サンバーちゃんがんばれー!」「逃げろサンバーちゃん!」などと声を上げてエールを送る。薄毛ではないがだいぶ白髪に覆われた中年がクルマに話しかけてる。かなりきちゃってる感じで危ないが、サンバーに乗るおっさんは全国的にそんな風だと思うの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事実は口コミより真なり 茨城県筑西の中古車屋さん 結城自動車

先日スバルサンバーベースの軽キャンパー、アウストラ社の「キャンビー」を買ったのは茨城県筑西市にある中古車販売店の結城自動車さん。

いくらお目当てのクルマがたった一台そこにしかなかったとしても、やはり販売店の対応は気になる。どんなにクルマが素晴らしくてもお店が悪ければ私は絶対に買わない。キャンビーを見つけた時、『カーセンサーnet』の「クチコミ」を当然参考にした。「接客」は5段階中「5」で最上位、「雰囲気」「アフター」「品質」も極めて「5」に近い数字で評判は良さそうだ。だがそんなに悪評価の店がたくさんあるわけではないから、やはり直接訪れてみないことには本当に良い店なのかわからない。

「少人数体制の為、ご連絡後のご来店をお願い致します。」と書かれていた。地元を出発する前に売れ残っているのかの確認も兼ねて電話をしてみた。すると電話の向こうからいかにも誠実で親切そうな声が聞こえてきた。クチコミどおりなんか良さそうな店だということがわかり安心してクルマを走らせた。店に近付くと街道沿いからざっと数えて5~6台のクルマが見えてきた。「小さな店」と事前に聞いてはいたが確かにそれほど大きくない。地面に少し凹凸のある砂利敷きの店だった。

早速クルマを見せていただく。写真や紹介コメントから想像していたよりも現車はずっとコンディションが良かった。誇大広告の真逆。屋根に大きなヘコミがあり写真では目立っていたが、前方からはほとんど気付かれない。社長兼店主の木下さんはディーラーの塗装部門で修行された経験を持つ板金塗装のプロフェッショナルの方。ヘコミを直すことはできるのだが、室内の天井に断熱材が入れられており、それを外してから叩き出すとえらくコストがかかってしまうらしい。当然それは販売価格に転嫁されてしまい、お買い得感が失われてしまうからやめることにしたそうである。妻が「事故車ではないのか」と疑うので改めてヘコミの原因について訊いてみた。10年くらい前に関東を襲った大雪の時、当時のオーナー(社長さんの実兄)の自宅の屋根に積もった雪が屋根を直撃したそうだ。信憑性のあるエピソードだったのでそれ以上追及する必要はなかった。塗装のプロの目から見ても剥離が起きそうにないというから安心した。

機関も良好。試乗こそできなかったがエンジンと補記類からの異音は無し。エアコンからの空気も無臭だった。ATのつながりも良いとのこと。「但し...」ということで、サンバーのエンジンの泣きどころについて説明をしてくれた。エンジンオイルの滲みや漏れがどの個体でも発生し得るという。エンジンをリアに傾斜させて積むサンバー特有の病気で仕方のないことだそうだ。また普通に走っていても高回転域を多用するエンジン(特に3AT車)であることから3,000キロ毎を目安にエンジンオイルを交換するよう推奨された。オイル減りや滲みを早期に発見することで大きなトラブルを未然に防げるという。高い頻度でオイル交換をして欲しいという店側の想いからオイル交換の料金はかなりリーズナブルに設定されている。

創業当時は軽トラや軽商用バンを中心に展開していたと話されていた。その後は乗用車をメインに販売されている。昔は仕入れたクルマにトラブルが起きるなど色々と失敗もしてきたと伺った。様々なメーカー、車種を扱ってきた実績から各車の弱点を包み隠さず教えてくれる。少し古めのクルマを検討している客にはトラブルのリスクを説明した上で購入してもらっているそうだ。

クルマを買う際、数車種の間で迷ったら結城自動車さんに相談してみたらよいだろう。車種毎の良いところ悪いところも知らずにアレコレ検討しても仕方がない。早期に欲しいものが絞り込めると思う。特に少し古くても安く手に入れたい人は対象のものが良いクルマか故障が起こりやすいクルマか経験の上で話してくれるし、それでも乗りたいということであれば予防的な整備(当然、別途費用がかかります)や定期メンテナンスのアドバイスをしてくれる。私はサンバーを買ってしまった後なので何の意味もないが、過去に検討していたクルマの名前を挙げるとそれぞれのトラブルスポットを教えてくれた。それを聞いた時、「あー○○を買わないでヨカッタ」と胸を撫で下ろした。

ディーラーさんの「カーライフアドバイザー」よりもまず、モノとしてこれはどうなのかを教えてくれる「カーアドバイザー」が買う側には必要だ。その点で結城自動車さんは心強い味方になってくれるだろう。

 

私が初めて店を訪れたのは2月の初旬、納車は2週間後だった。ちょうど世の中的には新生活を迎える時期と重なっていたこともあってかクルマが飛ぶように売れていた。いつ訪れても店頭には常に納車待ちのクルマが3台くらい停まっていて、個人で営んでいる小さな店らしからぬ売れ行きに驚いてしまった。『カーセンサーnet』 に掲載されていないクルマもたくさんあるから気になって訊ねてみると、客の要望を聞いてオークションで仕入れてくるそうだ。そういえばお店のタイトルは「車のお探し専門店 結城自動車」だった。

このお店では「車探し」と「在庫車」とを完全に切り離して考えていて「オークションで探して欲しい」という客に代替案として在庫車を無理に奨めることは決してない。「当社が選ばれる {5つの理由}」の中に「しつこい売り込みがなく、気軽に来店できる安心感から選ばれています!」とあるとおり、押し売りをしないのがこのお店のもう一つの美点である。

他方、在庫車はどうなっているかというと、こちらもオークションなのだが社長さんが面白いと思ったクルマを仕入れてくる。だからけっこうな数のマニュアル車も売りに出されている。しかもそれらは、いかにもチューニングカーやスポーツカーというのではなく、どノーマルでフツーのハッチバックやセダンの5MT車などである。

少し前までは「ミラジーノ専門店」的な商いをされていた。ミラジーノに関してはご本人曰く「飽きるほど整備してきた」と語るほどの実績があるのでネオクラシックのジーノをお探しの人にもオススメだ。こんな風に書くとマニアックなお店を想像されてしまうので少し訂正。実際には万人受けする売れ筋車種(しかも完全ノーマル)を多く取り揃えているからご心配なく。

在庫車の中心は1990年代後半から2010年代前半までの車種。走行距離10万キロ以上のクルマも珍しくない。「タイミングベルト交換済み」と必ずしも謳っているわけではないが、機関のコンディションに特別注意を払っているお店なのでタイミングベルトも交換しているようだ。早めに交換した方が良い車種に対しては10万キロを待たずに交換してしまうと話されていた。タイミングチェーンのクルマもあるので購入する際にはお店側に確認してみよう。10万キロを超えたクルマであっても整備歴が明らかで機関的に手入れの行き届いたクルマしか仕入れていない。展示車両に限れば、だいたいコミコミ25~50万円くらいの価格で安心して新しいカーライフをスタートさせることができる。

 

店頭在庫はいつも15台ほど。4月に入り少し落ち着いたが、3月末までは毎日1台づつ掲出車両が「SOLD OUT」に切り替わり、私の印象では1ヵ月で在庫車が一巡してしまうような感じを受けた。中古車でこんな在庫回転率があるものなのか。どうしてこんなにも売れるのか不思議でならなかったので伺うと、初めは『カーセンサーnet』などを見て訪れ、購入した客がリピーターになってしまうらしい。クルマを買い替える時や、家族がクルマを買う時にリピートでやって来る。

この人気の秘訣はどこにあるのか。社長さんの親身で丁寧な対応はもちろん大きな理由のひとつ。「クチコミ」を読めば目利きの良さも伝わって来る。しかしそれに加えて客の心をつかむ工夫も色々とされている。例えば、納車記念にケーキをプレゼントしてもらえる。納車時にはクーラーボックスを持っていこう。どんなタイプのケーキかは購入した人のお楽しみのために言わないでおく。また顧客フォローもきちんと行っている。そのやり方も独特なのでこれも内緒。クソ忙しいのになんてマメな人なんだろうと関心してしまった。こりゃリピーターになるわな。

こうして私も一見さんから結城自動車ファンのひとりになってしまった。こっちの勝手だが店とのお付き合いが始まった。そして、先日ファーストカーの車検をお願いした。車検整備のポリシーが独特で面白かったからだ。「安全を犠牲にせず、高品質を保ちながら低価格化を目指しており、必要な時間をきちんと確保するために1日1台限定」といった主旨のことが案内に書かれていた。

ここ30年、お付き合いのある個人経営のクルマ屋さんがなかったから、新車で購入して以来ほぼ全ての整備をホンダのディーラーさんにお願いしてきた。今回7回目の車検を迎え、初めてディーラーさん以外のお店に出した。買ったクルマでもないのにやってくれるのか恐る恐る訊ねてみると快く引き受けてくれた。2年前にかなりの額を投じ、しっかりと整備を行っていたという経緯があったことは確かだが、車検整備と数々の消耗パーツを交換してくれた上で10万円に満たず、私にとってはかなりリーズナブルな費用で済んだのでとても満足である。

社長さんは大のクルマ好き。今は忙し過ぎてできなくなってしまうと言うが、以前は趣味でクルマのオールペンをしたり、バイクに乗ったり(現在も所有)していたと教えてくれた。いつも訪れる度に「忙しいのに悪いなぁ」と思いつつ私がくだらんクルマ話を始めると辛抱強く付き合ってくれる。なんだか久々にクルマ談義をする友達ができたような感覚になり、こっちは幸せだが、向こうにとっては迷惑な話だろう。

茨城県筑西市にある結城自動車さんは私が自信をもってオススメしたい中古車店だ。私もクルマの買い換え時が訪れたら、またお世話になりたいし、息子達がクルマを持つ年頃になったら連れていくつもりだ。「いいから親の言うことを聞いてミラバンの3ドア車5速マニュアルにしなさい!」などと父親の私の方が押し売りモンスターになりそうでこわー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やりなおしキャンピングカー

やっちまった。やっちまった。キャンピングカーを衝動買いしちまった。『カーセンサーnet』で見つけてからわずか3日目のことだった。買ったのは2012年式スバル・サンバーがベースの軽キャンパー。見た目はフツーのサンバーバンで4ナンバー登録のクルマだ。

私はサンバーのマニアではないから知識ゼロ。後日、茨城県つくば市にあるクルマとバイクのカタログ専門店「ノスタルヂ屋」さんに出かけカタログを入手した。他メーカーの軽商用バンのカタログ在庫はけっこうあるのに、サンバーのがなかなか見つからん。カタログを手放す人が少ないのか、入荷してもすぐに売れてしまうのか。サンバーの人気が窺える。2006年版のカタログが一部だけ残っていたので迷わずこれをゲット。それによるとベース車のグレードは「トランスポーター」であることがわかった。ウチのにはリアゲートから「Transporter」のステッカーが剥がされてしまっている。街中で「トランスポーター」を見かけるたびに「荷物運びに徹した最廉価版」とばかり思っていたが、実際には「Dias」を除けば最上級のグレードだった。車検証には「LE-TV1」と書かれている。「TV-2」というのもあるようだけど何の違いだ。これもカタログによって謎が解けた。「TV-1」が二駆、「TV-2」が四駆を指すらしい。なるほど勉強になった。

家には14年前のホンダのミニバンがあるから、はっきり言って2台目のクルマは不要。それでも趣味のセカンドカーとして軽自動車が欲しくてたまらなかった。きっかけは昨年6月に代車として2003年式の三菱ミニカ3ドアバンを借りたこと。3ATのクルマで本当に面白かった。それからずっと、ネットでミニカの中古車を検索する日々が続いた。ある時、スーパーの駐車場で愛車とミニカが隣り合わせになり、遠くから眺めていると「本格的な車中泊ができないようなクルマを2台も持っていてもしょうがないか」という気持ちが芽生え始めた。ミニカは大好きだけれども、どうせなら全然違うクルマ、荷室の広い軽ワンボックスにしよう。ということで次に目を付けたのはホンダ・アクティバン。こちらも基本設計が古くて3ATだ。日頃、ホンダのディーラーさんにお世話になっているから2台まとめて面倒を見てもらえるし丁度いいではないか。ところが予算コミコミ20万円くらいで考えていたのに50~60万円するから断念。ならばスズキ・エブリイはどうだ。現行型ではなくて1999年~2005年までのモデルが欲しい。フロントの顔つきとスタイリングがカッコいいではないか。軽でも商用車でもなくなってしまうがランディを見よ。あれはアメリカ車だ。

ファーストカーの車検を今年の5月に控えており2台目を買うならば1年ずらしたい。どのクルマにも言えることだが「車検残1年以上」という条件付きで検索するとタマ数はぐっと少なくなる。AT、2WD、NA、4ナンバーに限定するとなおさらだ。群馬や神奈川、果ては岐阜などに良さそうなものはあった。しかし私が住む茨城県の個体がなかなか出てこない。クルマ購入のど素人で恥ずかしいが、他県でクルマを買っても乗って帰って来れないのか。やはり陸送しなけりゃならないのか。などと考えてしまって無知が故に手が出ない。最後に選択肢に無かったスバル・サンバーも一応見ておこうという気になりネットで検索したところ冒頭のキャンピングカーに出逢ってしまった。

スバリストの方には悪いが全然カッコいいと思えなかった。唯一好きだったのは「クラシック」。しかしなんかシャレオツ過ぎて気が引ける。サンバーは4気筒エンジンで評判が高いけれども、以前に同じく4気筒を積むプレオ・ネスタ(2003年式)を所有していたが、はっきり言って私の愚鈍な操縦では3気筒車とどう違うのかフィーリングの差を全く感じ取ることができなかった。だから4気筒車だからといって買う気にはならない。

ワンボックスの軽を手に入れたら車中泊仕様にしたい。キャンプをしない(電子ジャーで炊飯すること以外に料理ができないから)私にとってキャンピングカーとしての豪華装備はまず不要。ミニギャレー(小さな流し台)とポータブルトイレだけが欲しかった。手洗いと歯磨きができればそれで十分だ。だがフツーのワンボックスバンに流し台だけ付けてくれるキャンピングカー架装メーカーはあるのか。付けてもらえるとすればいくらでやってくれるのだろうか。そんなことを思い始めた直後に見つけたのが今回のキャンピングカーである。流し台が付いているだけのシンプルな内容。求めていたものとピッタリだ。しかも茨城県内のお店にあった。価格は車両39万円、コミコミで45万円。ちょっと考えていなかった高額車だったが二度と出逢うことはないだろう。

こんなのはすぐに売れちゃうんじゃないかとダメもとで中古車屋さんに電話をしてみると、まだ残っているという。同じ県内とはいってもウチからショップまで2時間くらいかかる。今日は土曜日。着いた頃にはルームミラーに「成約済」の札がかかってたなんてことだって考えられる。そうなったら縁が無かったときっぱり諦めようではないか。店に着いた。果たしてそこにあったのは...

屋根に落雪でできた大きなヘコミがあり、またボディの数ヵ所にも小さなヘコミがあった。「外装を気にしない方に」と『カーセンサーnet』での紹介コメントに予め書かれていたが、実際の現車はとてもキレイ。こっちはカーアクション映画で育ってんだ。気にすっかそんなもの。内装は普段使いを躊躇してしまうほどのグッドコンディションだった。しかも禁煙車でラッキーなことこの上ない。

寝床は完全にフラット。天井には断熱材が貼ってありちゃんとしてるじゃないか。ルーフキャリア、プライバシーガラス、ETC、AIZU製の「マルチシェード」まで付いていて買い足すものが無い。私は使わないがナビとドライブレコーダーまで装着されていた。ボディカラーもいい。白とか銀じゃなくて水色(ライトブルー・メタリック)で最高だ。さらに歴然としたツーオーナー車だったこともプラスだった。新車時のオーナーさんは何と店主の実のお兄さん。昔からずっとキャンプが好きでお子さん達のために買ったそうだ。お子さん達が大きくなり、また一緒に出かける機会が減ってしまって手放したという。次の嫁ぎ先はショップの近所に住むご年配の方。定年退職後に夫婦で温泉巡りをするために購入されたのだが、結局近所のスーパー銭湯に通っただけでベッド部分は一度も使用されなかったと伺った。他に2台のクルマを所有されているお宅で、3台目をもて余して出戻ってきた。まだ6万キロしか走っておらず、きちんと整備されてきた極上の個体だ。

フロントパネルには「Canbe」の文字が、リヤゲートの上の方には「AUSTRA」と書かれている。「アウストラ」がキャンピングカービルダーの名前なのか。初めて聞くメーカーだ。ネットで調べてみたら東京都目黒区の会社らしい。昔買った『軽キャンパーfan』(八重洲出版)を幾つか見ていたら2010年のvol. 6に私が買ったのと同型車がちゃんと掲載されていた。これによると、私の個体には「スイングダウンベッド」という子供用の吊り下げベッドが装備され、サブバッテリーも1個増設されていた。

このムック本を買った当時「バンコン(=バンコンバージョン)」は検討外だったからノーマークだった。同社のホームページを見てみると「100万円キャンピングカー」を売りとしている。ローコストに徹するために宣伝は行わないという方針であった。どおりでキャンピングカー雑誌や軽キャンパーの特集本を見ても広告が出ていないから気が付かなかったわけだ。キャンピングカーメーカーは複数の車種をラインナップするのが一般的だが、同社は一車種のみの展開。

私が買ったサンバーベースの車両はアウストラ社初のモデルだった。2012年にサンバーの販売が終了すると第二号車は三菱ミニキャブ/日産クリッパーベースに切り替わった。現在はスズキ・エブリイを架装した「Canbe 3」が売られている。100万円とはいかないが変わらずローコストを追求していて最もベーシックな仕様は148.9万円(店頭渡し乗出価格)から買うことができる。

軽とはいっても、いかにもキャンピングカーといった雰囲気を持つ「キャブコン(=キャブコンバージョン)」車を買おうとすれば230~250万円くらいするものだ。10年以上前でもそれくらいの値段だった。バン然とした見かけにはなってしまうが、そこに100万円強で買えるとなれば、家計への負担も軽くセカンドカーとしても十分に検討対象となるであろう。作り手も買い手もデラックス志向が強いキャンピングカー界にあってアウストラは貴重な存在だ。もっと多くの人に知って欲しい、頑張って欲しいビルダーである。

しかしよくもまあこんないい出物が売れ残っていたものだ。ショップの社長さんによれば『カーセンサーnet』に掲載されてから3週目くらいだったそう。見に来る人はかなりいたけれど、もう欲しくてたまらない夢心地の旦那さんをよそに奥さんが首を縦に振らなかったらしい。その点、我が家は過去に一度キャンピングカーライフを経験しているから、月々少額払いのローンを条件にすんなりと許してくれた。夫婦の間では、子供達が巣立ったらまたいつか小さなキャンピングカーを買おうと話していた。それは10年後くらいにやってくるかも知れない予定だった。中古の軽トラを手に入れ荷台に簡素なシェルを載せた「トラキャン(=トラックキャンパー)」で温泉巡り(と騙しつつ本当は全国のミニサーキット巡り)ができたらいい。けれどもそれを実現しようとすれば安くあげても150万円くらいかかるだろう。シニアになるまでに150万円を貯めなければならない。「絶望」の文字が立ちはだかる。それが今回45万円で手に入ってしまった。軽キャンパーは値落ちしないから、普通キャンピングカーの専門店だったら80万円とか100万円とかしているはずだ。私は感動し興奮し気づけば事務所の中に。そういえば値段交渉し忘れた。もう手遅れか。

 以前のブログで書いたことだが、10年ほど前にキャンピングカーを持っていた。それは1994年式シボレーG20バンがベースのカナダ製キャンピングカー「ロードトレック」だった。北米のモーターホームのミニバージョンで電子レンジ、冷蔵庫はもちろんトイレも付いていた。発電機とルーフエアコン完備だから真夏の旅行でも快適だった。ずっと乗っていたかったのだが、ある時期、接客業に転職したら土・日が休みとは限らず子供達を乗せて出かける機会がめっきりと減ってしまった。痛まないように無理矢理近所を走ってた感じだ。そんなワケでロードトレックを泣く泣く手放した。(本当はカネです)

今度のキャンビーとは一生ものとして付き合っていこう。2台のクルマの維持ができなくなったら、こっちをファーストカーにする。壊さないようにいたわりながら、小まめにメンテナンスをしてもらいながら乗り続けていきたい。「サンバー 乗り方」「持病」「注意点」などのキーワードでサンバーちゃんを学ぶ毎日。よっしゃ夢のとびらをこじ開けたぞ!

夢と引き換えになったのは鬼のような長期ローン。返済したのはたったの1回。マイジャーニーの道しるべには"Road to Hell"って書いてあるようにも見える。 

 

 

 

 

 

 

 

 

公道最速はクライスラーMボディ 失うものは何もない 捨て身で行けー!

去年の夏の暑かった頃、BS放送ブルース・ウィルスの主演映画『16ブロック』(原題:16 Blocks、2006)を観た。「なんだ吹き替えか」などとタダ観の奴が文句を言ってはいけないブルース・ウィルスが乗っていたわけではないが、劇中度々2000年代のシボレー・インパラの覆面パトカーが登場する。おそらく日本人の誰も好きにならんであろう丸っこくてFFのカッコ悪いやつ。しかし、FFビッグセダン好きの私にはクールに映った。ねずみ色っていうのもいい。「Internet Movie Cars Database」という映画に登場するクルマのウェブサイトがアメリカにあり、アメリカ人のマニアの投稿によると2000年モデルらしい。アメリカ人を含めて殆どの人にはどーでもいい話なんだろう。こういうクルマに出会えるから、たまには新し目の映画も観てみるものだ。

こんなの並行輸入して乗るわけにもいかないから代用車として雰囲気の近い日本車にはどんなものがあるのかな?などと輪をかけてどーでもいいことを考えていたところ、本屋さんで『昭和40年男』の2020年10月号を見つけた。特集は「俺たちのハートを撃ち抜いた刑事(デカ)とクルマ」。これは買うしかない。巻頭特集はもちろん『西部警察』シリーズだ。小学生から中学生にかけて欠かさず観ていた。ところが私は、劇用車の代表作とも言える「マシンX」や「スーパーZ」などにはあまり興味が無く、どちらかと言えば刑事さんが犯行現場に乗り付けるだけの何の変哲もないセダンに心を奪われた。

スタさんの"赤い稲妻”はもちろん好き。マスキー法以降のなんちゃってマッスルだから。我が家にはJOHNNY LIGHTNINGのミニカーも飾ってある。だが時々出てくるハッチのくたびれたセダンもなかなかいい。前述のウェブサイトによるとハッチのクルマは1973年型のフォード・ギャラクシー500なんだって。別にカーチェイスをしなくてもいいのだ。この雑誌ありがたいことに、かなりマイナーな刑事ものドラマまで網羅しているだけでなく、A10オースターとか、810ブルとかC32ローレルなどのパッとしない劇用車も取り上げてくれているから嬉しくなる。

 

 

この雑誌に触発されて昔買ったポリスカーの本を久しぶりに開けてみた。『DODGE, PLYMOUTH, CHRYSLER POLICE CARS 1979-1994 』(Edwin J. Sanow and John L. Bellah with Calen Covier、Motorbooks International Publishers & Wholesalers、1996)という洋書。これはいつどこで買ったものだろう。裏表紙に店のシールが貼ってあった。アメリカ・ミネソタ州ミネアポリスの近郊にある「MALL OF AMERICA」というショッピングモールの中の本屋さんで見つけたらしい。1996年だったか1997年だったか、世界最大級(当時)のショッピングモールをこの目で見ようとひとり旅に出掛けた。ちょっと大げさかも知れないが幕張のイオンモールを四つ繋ぎ合わせて円形にしたような巨大商業施設だった。専門店街のコンコースに取り囲まれるように真ん中には遊園地、その地下には水族館が入っていた。冬は極寒になる地域だからドーム屋根が付いた全天候型。ミネアポリスダウンタウンもぶらついてみた。黒人と白人のカップルを結構見かけた記憶があり、なかなかリベラルな雰囲気の街だなという印象を抱いていたのだが、昨年の5月に白人のお巡りさんをきっかけとする反人種差別デモが起きたことに驚いた。日々暮らす人の現実を知り残念に思う。

私はポリスカーマニアではない。ではなぜこの本を買ったかと言うと、大好きな「Mボディ」の写真がふんだんに掲載されているから。Mボディを様々な角度から拝むことができる。「Mボディ」とはクライスラー社の「Mプラットフォーム」のことである。1976年モデルとして登場したダッジ・アスペン/プリムス・ヴォラーレの「Fボディ」を流用して作られた(オッサンなので「プリマス」じゃなくて「プリムス」と呼ばせて)。それが証拠にどちらもホイールベースは112.7インチ(2,863 mm)でフロントサスペンションは横置きトーションバー、リアはリーフリジッドである。クライスラー・ルバロン/ ダッジ・ディプロマットの1977年モデルからMプラットフォームは展開された。全長5.2 m級で当時のインターミディエイトサイズの高級車だった。4ドアのMボディは、その後ずっと112.7インチのホイールベースを保っていたが、2ドア版については1980年から1982年までの間、ショートホイールベース化されたモデルが販売された。私はこの頃のカクカクボディのラグジュリーコンパクトクーペが好きだ。マーキュリー・モナーク/フォード・グラナダの2ドア、マーキュリー・ゼファー/フォード・フェアモントの2ドアなどなど。

クライスラー・ルバロンとダッジ・ディプロマット/プリムス・グランフューリーはどちらも角形4灯式ヘッドライトを採用している。但し、スモールランプ& ウインカーの配置が両者(車)では異なる。ダッジとプリムスではヘッドライトの下にスモールランプ& ウインカーが「目の隈」のように置かれている。一方のクライスラーではスモールランプ& ウインカーがヘッドライトの上に「眉毛」のように置かれている。よりエレガントに映るのはクライスラーの方。30年前、私はアメリカの住宅地で'80-'82のルバロン2ドアクーペを見かけた。夕暮れ時にスモールランプだけを灯して走る姿がものすごくカッコよく、今でもその光景が目に浮かんでくる。優美なクライスラーに対して'80年代~'90年代のアクション映画の中で木っ端微塵に吹っ飛ばされているのはダッジとプリムス。

 

話をポリスカーに戻そう。Mボディがアメリカの警察車両として使われ始めたのは1981年モデルから。前年までのダッジ・アスペン/プリムス・ヴォラーレの後継機種となり、主力のRボディ(全長5.5 m級)のクライスラー・ニューポート/ダッジセントレジスと併売された。但し、Rボディにしても前年まで設定されていたスモールブロック360 cid(5.9リッター)はカタログから落とされ、318 cid(5.2リッター)が最大排気量となった。クライスラー・ルバロンとダッジ・ディプロマットは「A38」ポリスパッケージと呼ばれた。318 cid(5.2リッター)、4バレルキャブ仕様はエンジンコード「E48」、最高出力165 hp(ネット値)で、これにロックアップコンバーター付きのTorque Flite 727(クロスレシオで容量の大きい"ビッグブロック")3速ATが組み合わされた。2バレルキャブ仕様は「E45」と呼ばれ最高出力は130 hp(ネット値)。これにワイドレシオの3速ATが備わる。

4バレルの「E48」は360 cidのシリンダーヘッドに換装され、大径バルブと大径シングルエキゾーストパイプが奢られただけでなく以下のモディファイが施されていた。エンジニアさん、チューナーさん私の和訳がヘンだったらごめんなさい。

クランクシャフトとオイルサンプとの間にオイル・ウィンデージ・トレイを設置(クランクシャフトの回転に起因するオイルの撹拌ロスを低減することが狙い、と世良耕太さんのブログに書いてあった)、ピストンリングのトップリングのクロムめっき処理、最適硬度のノジュラー鋳鉄製クランクシャフト、デトネーションセンサー、ダブルローラータイミングチェーン、オイルフィラーキャップの配置替えによる整備性向上、鍛造コンロッド、オイルリングのクロムめっき処理による耐久性向上、エキゾーストマニホールドの耐久性向上、バルブスプリングの耐久性向上、ロッカーアームの強度増大、シリンダーヘッドカバーガスケットの耐熱性向上、バルブシールの耐熱性向上、カムシャフトのリューブライト処理、ナイモニック排気バルブ、シリンダーヘッドのコリーン処理、ピストンクリアランスの見直し、シルクロム1による吸気バルブの耐熱性向上、ウォーターポンプのベアリングのサイズアップ。

なんだかポリスカーのエンジンの開発者達は楽しそう。アメリカンポリスカーのスペックについて興味のある人は『アメリカンポリスカー大図鑑』(矢吹明紀、ライトニング編集部、2003)を手に入れよう。追跡用ポリスカーの歴史が1930年代から展開されているし、歴代最大排気量、歴代最大出力、歴代最高速を誇った、それぞれのポリスカーが紹介されている。

1982年モデルは前年モデルの完全なキャリーオーバー。Rボディは前年モデルをもって終了し、Mボディが主力かつ最大サイズのポリスカーとなる。クライスラーブランドのポリスカー(ルバロン)も廃止され、ダッジ・ディプロマットとプリムス・グランフューリー2車種のラインナップが設定された。この年は「Kカー」が話題の中心となった。市販車として二年目のダッジ・エアリーズK/プリムス・リライアントKがポリスパッケージとして登場した。

1983年も前年型と変わらず。但し例外はチルトステアリングコラムが装備されたこと。この年限りで「Slant 6」がカタログ落ちした。Kカーは「ポリスカー/パトロールカー」、Mボディは「Pursuit(追跡車)」と呼ばれるようになる。また、ダッジ・ディプロマットには「GL41」、プリムス・グランフューリーには「BL41」というポリスパッケージ名が新たに与えられた。この年、生産拠点がカナダのオンタリオ州ウィンザーからアメリカ・ミズーリ州セントルイス近郊のフェントンに移された。

1984年にはエンジンコード名が変更され、4バレルの「E48」は「ELE」、2バレルの「E45」は「ELD」となった。4バレル仕様のトランスミッションはビッグブロックの「727」から「A999」と呼ばれるスモールブロックに換装された。これはTorque Flite 904(スモールブロック)の改良型。ワイドレシオで加速力が向上した。0→60マイル(約96.6 km/h)、0→100マイル(約160 km/h)までの到達時間、トップスピード、1/4マイル(ゼロヨン)タイムのいずれもが向上した。それでいて燃費の良い高圧縮比のパワートレインだった。『DODGE, PLYMOUTH, CHRYSLER POLICE CARS 1979-1994 』が警察関係者に対し独自に行ったアンケートによれば、1984型の4バレル仕様が「ベスト・Mボディ・ポリスカー」ということらしい。2バレルの方はファイナルギアレシオがハイギアード化されてしまい、ミシガン州警察のロードテストではゼロヨンで4気筒156 cid(約2.6リッター)のプリムス・リライアントKよりも遅かった!!!そうだ。

 1985年、4バレルのキャブレターがCarter ThermoQuadからRochester Quadra Jetに変更された。Rochesterは当時GMの一部門だったのでMOPARファンにとっては驚きのニュースだ。しかし、このキャブレターは元々Carter社が設計したらしい。4バレルの基本仕様には変更無く、360 cid用のヘッドが使われ続け、キャブレターの変更によって10 hpアップの175 hp(ネット値)となった。2バレルの方は、高圧縮比化され、燃焼室形状が見直された。また、動弁機構にはローラータペットが奢られた。新しい"急速燃焼"エンジンは10 hpアップし140 hp(ネット値)となった。また、Mボディポリスカーにグッドイヤーの「Eagle GT」タイヤが採用された。

1986年、ついにEFIが!と思ったら、これはKカーに。小学生の頃、和製スタハチこと「『噂の刑事トミーとマツ』が今晩8時からスタート!」と朝刊の全面広告だったか全5段広告で見たような気がする。うる覚えだが、そこにはアメ車の4ドアセダンが写っていたと思う。ワクワクして放送時間を待った。お風呂も早めに入った。いよいよそこに現れたのはアメ車ではなく国産車だった(最近知ったことだがギャランΣ)。この時のガックシ感と同じである。4バレルは前年そのままの仕様で、名前だけ「Interceptor」(今更もって訳すと「迎撃機」かな?)というカッコいい響きに。なぜか圧縮比が下げられたが、点火タイミングの調整でパワーを維持した。またベーパーロック対策も施された。

1987年、Kカーは「パトロール」、Mボディの2バレルは「Pursuit(追跡車)」、同4バレルは「Interceptor(迎撃機)」という呼称となる。この年の変更点はエキゾーストパイプがステンレス製になったこと。径は同じで耐久性を向上させることが狙い。2バレルの方は最終減速比が2.94から2.24へハイギヤード化された。この年、クライスラーはAmerican Motors Corporationを買収。ウイスコンシン州のケノーシャにあるAMCの生産拠点を手に入れた。当時の日本円にしておよそ2億円をかけて改修し、Mボディの生産をここに移した。

1988年、クライスラー社のポリスパッケージのラインナップはダッジ・ディプロマットとプリムス・グランフューリーの2車種のみという寂しい展開。最終年にもかかわらず、どういうわけか運転席エアバッグが標準装備された。

 

1980年代半ばになると、アメリカの省エネムードは弱まり、ハイウェイパトロールの任務にあたる警官達からもっとパワーのあるエンジンが熱望された。'81-'83モデルのクライスラー・インペリアルに積まれていた318 cid EFIエンジンや、果ては360 cidの復活まで望む声が出てきた。318と360とはエンジンマウントが同じ、トランスミッションも同じで直ぐに換装できるらしい。その他、4ATも期待されたが、結局のところ開発投資を正当化するには至らずに数点を除いて同じ仕様で作られ続けた。ダッジ・オムニ/プリムス・ホライゾンでさえも'88モデルからインジェクションに切り替えられている中、Mボディはクライスラー全体で見ても唯一残ったキャブ車だった。FR、V8、3AT、リーフリジッドリヤサスのローテクカーは1989年モデルまで作られた(ポリスカーは1988モデルまで)。

 

'80年代を通じてダッジ・ディプロマットとプリムス・グランフューリーの生産台数は3万台~5万台後半くらい。6:4の比率でダッジの方が多く作られた。Mボディのポリスカーの販売台数で見るとどの年も2万台前後、最終年はおよそ1万台だった。タクシー向けにも多くが生産されたのであろう。アメリカの水道局や市庁舎の前などでもよく見かけた覚えがある。但しフリートユーザーオンリーではなくオーナーカーとして使われている場面も記憶に残っている。クルマに対して保守的なテイストを持つ年配層にはよく売れたようだ。なので決してレアものではない。Mボディの極めつけはクライスラー・ニューヨーカー/クライスラー・ニューヨーカー・フィフスアベニュー/クライスラー・フィフスアベニュー(年式によって呼び名が異なる)。内装はフカフカのシート、外観はCピラー部分が取って付けたようなランドゥルーフになっている。Allpar.comというアメリカのサイトによると、ダッジ・アスペンのフロントドアとフロントウインドシールドがそのまま付くというからキャディラック・シマロンも逃げ出すようなとんでもないバッジエンジニアリング車だ。’82モデルの生産台数は約5万台、'83 と'84がそれぞれ8万台前後、’85と'86がなんと10万台を超えて11万台に迫る勢い。'87は7万台、'88は4万台強、'89の最終モデルに至っても2万5千台以上作られた。オバケか。

 

ネットでMボディの情報を探していたら、"Are you a cop - The MOPAR everyone loved to abuse?"というサイトを見つけた。映画の中で思う存分破壊されてしまうクルマたちの代表格のようだ。『ビバリーヒルズコップ2』(原題:Beverly Hills Cop Ⅱ、1987)やコメディ映画『天国に行けないパパ』(原題:Short Time、1990)などのカーチェイスシーンで無惨な姿を晒している。もうとっくに退役しているだろうから、今はどんなクルマが映画の中でボッコボコにされているんだろうと興味が湧いてきた。ブルース・ウィルスがらみで『ダイハード3』(原題:Die Hard with a Vengeance、1995)と『ダイハード4.0』(原題:Live Free or Die Hard、2007)を借りてみた。『ダイハード3』では真四角の'87年型シボレー・カプリスのタクシーが車道も歩道も区別無くニューヨークの街中を爆走する。『ダイハード4.0』では2000年型のフォード・クラウン・ビクトリアが殺し屋のヘリコプターに追われ、最後は逆にヘリコプターめがけて突進し大破する。そもそもカーチェイス映画ではないが、2018年の『THE LAW 刑事の掟』(原題:Trauma Center) では、ブルース・ウィルスはおそらく1997-2003のマーキュリー・グランド・マーキス(と思ったら、これはフォード・クラウン・ビクトリアをマーキュリー仕立てにしているとのこと)の覆面パトカーに乗っている。銃弾を浴びるシーンがあるが、ボディに穴が開いたり窓ガラスが割れる程度。いずれにしても、Mボディのように走りながらフロントフェンダーがそっくりそのまま吹っ飛んでしまうような感じではなかった。映画の制作費を抑えたいということだけならば、なにもMボディにこだわる必要はない。'87-'91のポンティアック・ボンネビル、'88-'97のオールズモビル・カトラス・シュプリーム、'85-'95のフォード・トーラスなんかでもそこそこ車格もあるし良いのではないかと考えてしまう。同じクライスラーならば'93-2004のダッジ・イントレピッドではダメなのか。一般ユーザーからもポリスパッケージ(後期型)としても散々な評判だった。このクルマならば思いっきり破壊してもバチは当たらんだろう。いや、でもやはりエアロダイナミクスを採り入れたクルマでは気分が出ないのかな。

アメ車のデザインは1960年代初頭から角張り始めて('55-'57 トライシェビーも「角っぽい」と言えばそうなのかも)、いつ頃から丸味を帯びてくるようになったのだろうか。長田滋さんという方の『日本車躍進の軌跡 自動車王国アメリカにおけるクルマの潮流』(三樹書房、2006)にはアメリカ車各メーカーのスタイリング組織と活動の年表が載っている。それによると、フォードがドン・コプカ(Donald Ferris Kopka)というチーフデザイナーの下、先鞭を付けたようだ。CAFE(Corporate Average Fuel Efficiency = 企業別平均燃費基準)対策として燃費を向上させるためにエアロダイナミクスデザインを採り入れた。Probeというコンセプトカー(市販されたものとは全然違う)を経て、1983年モデルのフォード・サンダーバード/マーキュリー・クーガーに「ジェリービーンルック」(自分達でそう名付けたのか、外部から言われたのか不明)が反映された。前年のカクカクボディからの大変身。思いきったスタイルチェンジだったが、これはヒット作となった。その後、'84 マーキュリー・トパーズ/フォード・テンポと続き、'86 マーキュリー・セイブル/フォード・トーラスで丸っこいデザインは完全に市民権を得た。

またまたブルース・ウィルスがらみで2020年公開の『ナイト・サバイバー』(原題:Survive the Night)も借りてみた。凶悪犯達が乗っていたのは、なんと1977年型のシボレー・インパラのセダン(Internet Movie Cars Databaseによる)。流石にアメリカ人でも今どきこんなのに乗っているとは思えない。何の意図があって四角いセダンを「配役」したのだろうか。丸っこくて「地球と調和してますよ」というようなイメージのクルマなんて乗っていてもアウトローにはならず、登場人物の乱暴なキャラクターを決定づけるにはちと弱い。スマートとは正反対に位置付ける人間像を演出しなければならないのだ。しかしながら、ただそれだけのために四角いセダンである必要があるだろうか。大きくて四角いだけだったらピックアップトラックもしくはSUVを登場させればいい。

Mボディにしても、'77-'85のインパラ/'77-'90のカプリスにしても、'80-'91のクラウン・ビクトリアにしても、'80年代に入ると既に時代にそぐわないクルマだった。根強く売れ続けたクルマではあったが、一般ユーザーに限定すれば古い価値観をもった年配層しか買わなかったであろう。どうあがいても未来の見えない、忘却の彼方に沈んでいくべき”dead end”カーではなかったか。『ナイト・サバイバー』にはロードムービー的な要素がある。犯人の兄弟はメキシコへ逃亡することを夢見る。しかし、事はそう上手く進んでゆかない。先のない行き詰まった状況はまさに四角いインパラ。このクルマにそれが投影されているのだ、と私は解釈している。

アクション映画にしばしば登場する「はみ出し刑事(デカ)」達もまた自分の正義を貫き信念のままに生きる反対側のアウトローだ。時代錯誤も甚だしい現代に生き残った最後のカウボーイ達。こっち側も、"終わっている"四角いセダンで犯人を追いかけ回さなきゃらない。

私は新しいテクノロジーやトレンディなものに全く興味が湧かない人間。これでいいわけはないとわかっちゃいるけど、どうしても新しいものに食指が動かない。こんな世の中不適応のダメ人間だから、Mボディのような5.2リッターからようやく百数十馬力を絞り出している体たらくなクルマに共感してしまうのだろう。

けれども若い頃は違った。ドン・ジョンソンに憧れて体を鍛え、パステルカラーのズボンとシャツ、素足に白いドリフシューズ(靴流通センターで880円くらいだったから)を履いて街を闊歩した。あれから30年、ドン・ジョンソンというよりはジョン万次郎でくだ巻き。カリフォルニアデイトナスパイダーはもちろん買えない。ヴィヴィオ T-topも50万円くらいするのか。こっちも買えない。 

 

 

 

 

駆け抜ける綻び

クルマを整備に出す時、どんな代車を貸してもらえるかが楽しみの一つになっている。殆どの場合、整備はホンダのディーラーさんにお願いしている。代車として用意されるのは新し目のフィット・ハイブリッドなどである。慣れていないから乗り味が気持ち悪い。本当はザッツとかゼストとかバモスなんかに乗ってみたいのだが、今時の新しいモデルしか用意していないのだとか。

先日、民間の整備工場に愛車を一週間預けた。入庫手続きをしていると、代車らしき2台の軽が目に入った。1台は割りと最近のスペーシア。これは面白く無さそう。もう1台は信用金庫の外回りの人が乗りそうな白い軽のボンバン。かなり古い。屋根には雹に打たれたような跡がありボコボコだ。スタントカーか。顔付きで三菱車とだけは判った。う~ん、こっちを借りたい。ラッキーなことに代車は白い三菱だった。

整備工場を後にし、おっかなびっくり数100m走ったところで、「これはイイ!」「なんだこりぁ 面白れー!」と車中で叫んでしまった。ミッションは3速のステップAT。ハンドルが軽過ぎてフラフラだ。'70年代のアメ車みたい。好みと100%合致するクルマに出逢ってしまった。「これは何てクルマだ?」「これが欲しい!」と、家に着いてから早速カーセンサーで探した。その正体はミニカの商用バン。後で車検証を見たら2003年式(平成15年式)のGD-H42Vという型式のものだった。軽自動車にしては珍しく油圧式のパワステ。3ATと組み合わさって黄金のパッケージと言えよう。

私が借りたのは「ブーレイ顔」の個体。後期型は「ブーレイ」ではなくなった。いつから切り替わったのか知りたくて「ブーレイ顔」でネット検索してみたところ全然ミニカが出てこない。もう一度ミニカのフロントグリルを見てみたら、「ブーレイ顔」は三菱のワッペンの台座部分の形が正三角形(=富士山型)なのに対して、ミニカのやつは逆三角形で「ブーレイ」でも何でも無かった。年式的にも八代目のミニカは1998年発売だから、オリビエ・ブーレイ(Olivier Boulay)が三菱に来る前のデザインだ。三菱車ファンの間で「ブーレイ顔」に対して賛否両論あるようだが、私の勘違いといっても心に刻まれていたのだからアイデンティティがあったということにしよう。

2010年とちょっと古かったけれども、ミニカについて面白い考察がなされているブログを発見した。『毎日がエヴリデイ』というタイトルだ。「タタ・ナノ不要論  ~日本には三菱・ミニカがある~」だって。そうか確かにこれは和製タタ・ナノなのかも知れない。なにしろ現代のクルマに当たり前にあるものが何も付いていない。翌日、太陽の下で見たら真透明なガラスだった。パワーウインドウはもちろん無し。でも車幅が狭いし後席の窓は嵌め込みで開かないからレギュレーターハンドルで十分。集中ドアロックも付いていない。降りた時に助手席とリアハッチの鍵をかけ忘れそうになる。フュエルリッドオープナーを探しても見当たらずどうなってるのだろうと給油口に向かってみるとここにも鍵穴が。なんだ全部自己責任か。平和ボケした現代人への警鐘。20年くらい前にエールフランスのエコノミークラスに乗った時にものすごい窮屈さを感じた。「貧乏人は乗せてもらえるだけでも有り難く思え」と言われている気がしたことを覚えている。それと比較すればミニカは決して我慢グルマではない。オートマ、パワステでエアコンはバッチリ効くし、熱線付きのリアガラスに間欠ワイパーまで付いている。ラジオもある。時計もある。A地点からB地点への移動をするのに、これ以上人間に何が必要か。おまけに60km/hで走ってるのに80km/hのスリルが味わえるぞ。

自動車評論家の人が乗ったらびっくりする程、粗末なクルマかも知れない。だが私個人は、「なかなかいいクルマを作るじゃないか」と三菱自動車を見直した。確か1995年にお母さんがモデル末期のミラージュ(四代目の1.3リッターの2ドアクーペ。形式まで判らない)の特選車を買ってきた。初めての三菱車だった。経験したことが無い程エンジンのかかりが悪く、買った場所の「カープラザ」で診てもらったところ、「こんなものですよ」と言って真面目にとりあってくれなかった。ある時、軽い接触事故を起こした。自動車保険を使って事故の被害箇所を板金修理してもらおうと「カープラザ」に持ち込んだ。なんと事故とは全く関係の無い所まで無断で修理をして、保険の適用から外れる部分の請求を寄越してきた。私は怒って抗議し請求を取り下げさせた。これはメーカーではなく販売会社・ディーラーの対応の問題だとは思うが、それ以来、三菱自動車には不信感を抱き二度と買うまいと誓った。丁度その頃は、三菱自動車の不祥事が明るみに出た時期と重なり、三菱車に興味を持つことはないだろうという考えを持ち続けてきたのだ。しかし今回ミニカを運転してみて、三菱に対する世間の見方がどうであれパジェロランエボ、デリカが好きで堪らないという人の気持ちが少しでも理解できたような気がする。

前回のブログでクライスラーダイムラー・ベンツの「世紀の合併」について書いた。当時、両社の合併に非常に違和感を覚えた。何から何まで違うクルマ会社という感じがして、どんな相乗効果があるのだろうと疑問に思ったからである。今のフィアット・クライスラー・オートモビルズ(FCA)も私個人の意見としては全然ピンと来ない。しかしそうは言っても、これらは世界一のトップエリート集団が綿密な調査をし、相当の議論を経て下した判断であるから、私があーだこーだと言っても仕方無い。アメリカの自動車市場を侵食してきたのは間違いなく日本車である。高級車セグメントを除きドイツ車でもない。クライスラーにとっては自国の市場シェアを死守・拡大しながら、アジアで強く、欧州大衆車市場と中国にも一定の存在感があるとすれば日本のメーカーと組むしかなかったのではないか。「世紀の合併」の直前にクライスラー三菱自動車の株を手放していたから、あり得ない妄想シュミレーションに過ぎないが、クライスラーと三菱は何らかの形で手を組むことができなかったか。1990年代半ばまでの三菱自動車だったらクライスラーが抱えていた品質問題の改善に貢献できたかも知れない。勿論、大衆向けの小型車づくりは得意。既にマレーシアにも進出を果たしていたからアジア進出の足掛かりにも期待が持てそうだ。クライスラーとの関係も深かった。クライスラー三菱自動車のどちらも「買われる側」となっていたから、もっと強い提携あるいは合併はあり得なかったかも知れないが惜しい話である。結局、三菱は2000年になってダイムラー・クライスラーの支援を受けるわけだが、あらゆる出来事の時期が数年ずれていれば、別の生き残りができていたのかも知れず残念である。

『自動車合従連衡の世界』(佐藤正明、文藝春秋{文春新書}、2009)には三菱自動車クライスラーとの提携の歴史が詳しく述べられている。始まりは1968年(昭和43年)に通産省(現、経産省)が「自動車産業二大系列論」を示したこと。年産100万台規模の会社が二社あれば国内需要の対応に十分ということでトヨタと日産の二大系統に集約させる行政指導だった。当時、三菱重工業は自動車事業なかでも乗用車部門の不振に喘いでいた。重工副社長の牧田興一郎はものづくり屋としてのプライドからトヨタ、日産に匹敵する自動車会社に成長することを夢見た。そして二社に伍していくための道として外資との提携を視野に入れた。1968年6月、クライスラー副社長のA. N. コールが来日する。日産、いすゞ東洋工業(現、マツダ)、三菱重工に提携話を持ちかけた。1970年(昭和45年)2月、両社は基本契約を交わした。同年6月に三菱重工が100%出資して三菱自動車工業が設立された。1971年(昭和46年)の9月までにクライスラーが15%出資し、その後一年毎に10%上積みし最終的に35%まで引き上げるという契約だった。ところが、直後にクライスラーの経営が悪化したため、議決権を維持しながらも出資比率だけは15%のまま据え置かれてしまった。

1969年(昭和44年)に発売されたコルト・ギャランと1976年(昭和51年)のΣ(シグマ)、Λ(ラムダ)との間に挟まれた地味な二代目ギャランの姿が目に浮かぶ人は相当な三菱マニアだろう。初代のハードトップ「GS」シリーズ、GTOシリーズ、そしてΣ、Λのあまりのカッコよさに隠れて全く目立たない。しかし、二代目の中に「GT」というスポーツトリムが存在する。イメージカラーはイエロー。サイドにブラックのスポーツストライプが走る。顔付きとカラースキームがなんともクライスラーのマッスルカー風味で、これは怪しいと思った。茨城県つくば市にあるクルマ・バイクの古カタログ専門店「ノスタルヂ屋」さんを訪ねると、二代目ギャラン「GT」のカタログはあっさりと見つかった。不人気車ゆえに前の持ち主が「こんなの要らない」となったのだろうか。捨てる神あれば拾う神ありである。予想通り、二代目のギャランGTはクライスラーとの関わりから生まれてきたクルマだった。「クライスラーとの共同開発により、アメリカで好評のシンプルな2灯式ヘッドランプ 華麗なボデーサイド・ストライプ。」と謳われている。でもさっぱり売れなかったのでは。

1981年(昭和56年)、日本製自動車の対米輸出台数に自主規制が設けられた。前述の基本契約と同時にクライスラーは米国における三菱車の販売権を取得していた。合衆国流通契約と呼ばれるものによって、米国での三菱製乗用車の販売は2ドア車のみという縛りがあり、且つクライスラーが独占販売権を持つというものだった。これは自主規制が課される直前に改定することができたものの、各メーカーに対する自主規制内での台数割り当ては、過去の販売実績に基づくことになったため、それまで2ドア車しか販売できていなかった三菱自動車の割り当て台数は少なかった。

また、三菱自動車の株を三菱重工クライスラーにしか、クライスラー三菱重工にしか売ることができず三菱自動車の上場を阻んだ。これでは外部からの資金調達ができない。1983年(昭和58年)、舘豊夫が社長に就任した。舘は基本契約の見直しを図るためにクライスラーとの交渉にあたってきた人物だ。上場を前提にクライスラーの出資を15%から24%に引き上げさせることに成功し、これでクライスラーは契約上の35%ではなく出資比率どおりの発言権を持つ(フツーの大)株主になった。1988年(昭和63年)には米国で合弁工場(製造会社のダイヤモンド・スター・モーターズ)を立ち上げ乗用車の共同生産を開始し、株式上場も果たすことができた。

バブル崩壊後も三菱自動車は業績好調を維持してきた。パジェロパジェロ・ミニ、RVRといったRV車だけでなくディアマンテやFTOがヒットするなど業界3位の地位が磐石なものになりつつあった。ところがシェア15%を目指した矢先に業績は暗転してしまう。『自動車合従連衡の世界』には「RVの三菱」がホンダの後塵を拝したことが書かれている。また、『不正の迷宮 三菱自動車 スリーダイヤ 転落の20年』(日経ビジネス・日経オートモーティブ・日経トレンディ編、日経BP社、2016)にも三菱の凋落の一因として、三菱は初代オデッセイよりも前に同様のミニバンを発売すべきだったということが指摘されている。私も日本人があれほど毛嫌いしていたコラムシフト車が年間10万台以上も売れたことに驚いた。クルマに求める価値がスピードや性能から別のものに移ったことを感じ取った。悪路での走破性を意識した本格的なRV車でもない。潮目が変わったことを三菱も捉えておくべきだった。

1996年(平成8年)になると米国三菱自動車Mitsubishi Motor Manufacturing of America)でのセクハラ訴訟問題、1997年(平成9年)には総会屋への利益供与事件が発覚する。1998年3月期に1,800億円という過去最高の赤字を叩き出してしまった。

ダイムラークライスラーが合併を発表したのは1998年5月である。

三菱に話を戻すと、その後、2000年(平成12年)には三菱ふそうリコール隠しおよびヤミ改修が発覚してしまう。乗用車だけでも46万台に上る不具合の隠蔽だった。同年10月、ダイムラー・クライスラーとの乗用車分野における資本・業務提携に合意する。ところが2004年(平成16年)3月に再度のリコール隠し(乗用車、トラック・バス合わせて74万台)が明るみに出て、翌月にはダイムラー・クライスラーから追加支援の中止が発表される。2005年(平成17年)11月、ダイムラー・クライスラー三菱自動車の全株式を売却し資本提携は解消された。2016年(平成18年)、二度の燃費データ改ざんが明るみに出て対象車種の生産および販売停止に陥った。同年5月にルノー・日産アライアンスに加わり現在に至る。

一方のクライスラーも、1991年(平成3年)、再び倒産寸前まで追い込まれ、資金繰りのためにダイヤモンド・スター・モーターズ(DSM)の株を売却。三菱自動車が全てを買い取った。1990年(平成2年)から1992年(平成4年)の間に三菱自動車株の売却が進み、1993年(平成5年)には保有する株はゼロになり資本提携は完全に解消された。但し、その後も三菱自動車からクライスラーに向けてOEM車の供給は続けられた。私が調べた限りでは、ダッジ・コルト/プリムス・コルト(三菱ミラージュ)、プリムス・コルト・ビスタ(三菱RVR)は'94モデルまで、イーグル・サミット(三菱ミラージュ)、イーグル・サミット・ワゴン(三菱RVR)は'96モデルまで、イーグル・タロン(三菱エクリプス)は'99モデルまで、などである。

2007年(平成19年)、ダイムラークライスラー株をサーベラスグループに売却し、クライスラーは2008年12月と2009年2月に政府からの緊急融資を申請した。クライスラー不振の直接の原因は2004年頃から始まったガソリン価格の上昇が2007年から2008年にかけて高騰したことと、2008年のいわゆるリーマンショックの影響でサブプライムローンを活用した新車販売が止まってしまったことである。『ビッグスリー崩壊』(久保鉄男、フォーイン、2009)は、クライスラーを含むデトロイトスリーの構造的な問題に触れており、不振の原因を手っ取り早く儲けることができるピックアップトラックへの過度の依存に求めている。ガソリン価格が高騰するともろに需要が影響を受けてしまうのが大型車だ。こうした事態になるとダウンサイズモノコックボディ化がいつも求められる。しかし、アメリカ人からフルサイズのピックアップトラックを取り上げたら可哀想だと常々思ってしまう。日本人から日本車を取り上げて、これからはクライスラー・ネオン、GMサターン、シボレー・キャバリエポンティアック・グランダムの内から選んでくださいと言われたらどうだろうか。右ハンドルで日本車と同じくらいコンパクトだったとしても多くの日本人を満足させるのは無理だろう。

ちょっと脱線。アメリカに住んだことがある方なら理解できると思うが、彼らの日常の中に高速道路(大部分がフリーウェイ)がある。都市に近づくにつれて1~2キロ毎に、中心街では400mおきくらいに出入口がある。勿論、無料で自由に出入りできる。一方で、少し遠出をしようとすれば、一つの州を抜けるのに500kmくらい走ることもある。私は25年前にアメリカを訪れたのが最後だから、今はフリーウェイの制限速度がどうなっているのか良く知らない。郊外区間の速度制限には65mp/h(約105km/h)、70mp/h(約113km/h)、75mp/h(約136km/h)があるようだ。日本の高速道路のような走り方はまず出来ない。65mp/h(約105km/h)区間を140km/hくらいで走り続けようものなら、5分もしない内にハイウェイパトロールにつかまるだろう。郊外や田園地帯に行くと、ガードレールが無くなり幅が100mくらいある中央分離帯が現れる。中央分離帯と言っても只の草むらなのだが、所々の木陰にパトカーが潜んでいる。面白がって自動車をぶっ飛ばしている人そのものが日本よりも少ないから余計目立つのかもしれない。

こんな道路環境では110km/h~120km/hくらいを低い回転で余裕を持って走れるクルマが丁度よい。小排気量のクルマで金切り声を上げて走るのでは疲れるし、200km/h以上のスピードを安全に走れるクルマはオーバースペックで全然必要ないと思う。また、夏になればアフター5(多くの人がアフター4もやっている)にオンボロのモーターボートをトレーラーに載せて水遊びに興じる姿も珍しくない。牽引する人がとても多いため、ボディ・オンフレーム(ラダーシャーシ)のクルマが根強く人気を得るのも当然だ。

その反面、アメリカ人全員がプレジャーボートを引っ張るようなニーズを持っているわけではなく、また、郊外から都市中心部に通勤する人にとっては、あまりにも大きいクルマは不便だしガソリンも勿体ないし不要である。だから半分はピックアップトラックやそれらをベースにしたSUVが有ってもよいのだが、もう半分は小型のエコノミーカーを真面目に作り続けなければならない(日本の地方都市になぞらえれば、家族用にミニバンが一台あれば、後は軽で十分であるということと似ている)。ところが、小型車を低コスト且つ高品質に作るのはとても難しいそうである。『ビッグスリー崩壊』によると、アメリカ自動車メーカーは小品種・大量生産で高収益を上げてきた。つまり、ボディ・オンフレーム構造のピックアップをベースにSUVの派生車種を展開してきた。その反面、不得意な小型車は自前でやらないということで、世界で役割分担をして小型車の開発は海外の子会社任せにしてきたということだ。小型車づくりについて『アメリ自動車産業』(篠原健一、中央公論新社{中公新書}、2014)という本も参考になった。モノコックボディは精巧な作り込み、部品ユニット間における高い擦り合わせ技術=部品・ユニット間の微妙な調整が必要で、サイズが小さい=リーズナブルなクルマと言っても意外にも作るのが難しいそうだ。このため小型車生産には生産現場における不断の改善・改革努力と従業員の高い技術が要求されるという。これは断然日本のメーカーが得意とするところだ。こうして考えると、乗用車とCUV、エコカー三菱自動車に任せて、三菱の技術を採り入れながらクライスラーピックアップトラックと大型SUVの低燃費化と軽量化を推進する。既にフィアット傘下で進められていることではあると思うが、これが三菱であったら良かったという妄想シナリオが今日の話である。

ウィキペディアを見たら三菱のリコール隠蔽は1977年(昭和52年)に遡るというからちょっとがっかりした。しかし、三菱のクルマづくりの長い歴史を見れば1917年(大正6年)の「A型」から始まり、戦後から数えても1960年(昭和35年)の自社開発乗用車の「500」に辿り着き、それぞれ103年、60年といった年月がある。私が物心ついた1970年代初頭からクルマの免許を取るまでの1980年代後半まで、三菱車には夢があり、カッコ良さがあった。子供だったから気づかなかっただけかも知れないが、少なくとも人を傷つける凶器ではなかったし、カタログスペックをごまかして消費者を欺くようなことは無かったように思える。今後の期待を込めて1996年から2016年までの20年間だけ企業風土が異常だったという見方をしてみてもよいかも知れない。

今回八代目のミニカを借りてから、やたらと街中でミニカを探すようになった。なんといつもの通勤ルート(クルマで5分)に5台のミニカが生息していた。それまではノーマークだったからこれにはビックリ。また、休みの日に地元(茨城県北部)を走っていると必ず2~3台と遭遇するから結構居るのである。リセールバリューが無さすぎて売るタイミングが失われてしまったのか、それとも乗りやすいからいつまでも愛され続けているのか、きっと後者の方だろう。私はミニカを現代(といっても一番新しくて2011年だが)の「国民車(構想)」と認定することに決めた。スバル360、ミニ、カブトムシ、2CVと同じ扱いとする。三菱はベーシックカーを作るのに長けているのかも知れないと感じたのだった。マツダには「走り」とか「独自の低燃費技術」とか「洗練されたデザイン(本当にカッコいい)」の面でポジショニングを取られてしまっているし、スバルにも「走り」と「安全」の面で先行されている。今、三菱が「低燃費」や「安全」を声高らかに謳うと申し訳ないが何だかわざとらしい。基本は無印良品ユニクロのようなベーシックであり、15年いや20年乗っても飽きがこないクルマづくりをする。そして、時々ド派手でバタ臭く、でもやっぱり多くの人にとってカッコいいと思われるような商品を作ってしまう。こんな二本立てが器用にできるクルマメーカーであって欲しい。

クルマの整備が終わったと工場から連絡があった。私は一週間共にしたミニカとの別れを惜しんだ。自分のクルマのことよりも代車の感想をとうとうと述べたところ、整備工場側も面倒くさいから折れてくれた。車検1年を残したまま諸費用込み10万円くらいで販売もしてくれるそうだ。これだったら、頭金、金利、一定期間支払い無しの「ゼロ・ゼロ・ゼロ」サブプライムローンがあればすぐに買えるのだ。

その後のアイアコッカ、アイアコッカ後のクライスラー

若い頃アイアコッカ(Lee Iacocca)に影響を受けたと以前に書いたことがある。そんなことを言っておきながら、その後ずっとアイアコッカの追っかけをやっていたわけではない。'90年代に入ってからのアイアコッカはどうなったのだろう。いつまでクライスラーを率いていたのだろうか。ダッジ・バイパー、プリムス・プロウラー、クライスラーPTクルーザーなどの開発ストーリーにしばしば登場するボブ・ラッツ(Robert Anthony "Bob" Lutz)とはどんな関係だったのか。どんな経緯でクライスラーとベンツは合併することになったのだろうか。そのような問いに全く答えることができない。思えばこの30年間、常に自動車業界の動向を見張っていたかと言われると自信が無い。そんな思いを抱きながら、読まずに置いてあった自動車業界のビジネス本をごそごそと引っ張りだしてきた。どこかにアイアコッカのことが書いてあるかな。

 

1990年代のクライスラーにとって最も大きな出来事は合併である。ダイムラー・クライスラーの合併についての本を当時二冊買っていた。一つ目は『合併 ー ダイムラー・クライスラーの21世紀戦略』(ホルガー・アペル/クリストフ・ハイン共著、村上清訳、トラベルジャーナル、1999)。本文323ページ、2,000円もする。二つ目は『ダイムラー・クライスラー 世紀の大合併をなしとげた男たち』(ビル・ヴラシック/ブラッドリー・A・スターツ共著、鬼澤忍訳、中央精版印刷、2001年)。こちらは本文526ページ。2,400円とこちらも高級本。買った当時、開いて3分もすれば深い眠りへと誘ってくれる本だったのか、殆ど未読のままだった。なんという無駄遣いだ。MOTTAINAI。いや時の贅沢。おすすめは断然後者である。ノンフィクション小説風でかなり面白い。自動車メーカーの世界再編の理由として「400万台クラブに入らないと生き残れない」という業界の常識は耳にしていた。『ダイムラー・クライスラー 世紀の大合併をなしとげた男たち』にはどのような背景の下で合併が画策されたのか、合併後の社内にどのようなことが起きたのかまで書かれており、自動車業界の切迫した状況を窺い知ることができた。幾人もの自動車業界のカリスマが登場し、20年近く経た今でも読み応えのある本だ。ネタバレを恐れずにこの本の内容に基づき「世紀の大合併」の動きを追ってみよう。強烈な個性と個性とのぶつかり合いが生んだ大事件だ。

 

なぜクライスラーは合併を模索し始めたのか。その背景を見てみたい。久保鉄男さんという方の『ビッグスリー崩壊』(フォーイン、2009)によると、米国の自動車販売台数は1978年に過去最高の1,500万台に達した後、それから下降し続け第二次オイルショックが起きた1982年には1,000万台レベルまで落ち込んだ。その後需要は回復し1986年には過去最高を更新し1,600万台となった。ところが1987年10月にニューヨーク株式市場で株価が大暴落し景気後退期に転じてしまう。その影響は1989年の新車販売台数にも現れ始める。1991年に世界不況が起こり、米国のGDPも9年ぶりにマイナスに陥った。またもや経営不振いや倒産寸前と言われたクライスラーは1991年の初頭、フォードに合併をもちかけた。だが、その当時のクライスラーには優良資産が残っておらず、老朽化した生産設備、時代遅れの商品(Kカー引っ張りすぎだろ!)など魅力は薄くフォードに断られた。実は10年前の経営危機の時にもクライスラー側からフォードによる吸収合併が提案されていた。かなりきちんとした実行可能性の調査をクライスラーは行ったようだ。アイアコッカが計画書を携えてウイリアム・フォード(アイアコッカをクビにしたヘンリー・フォード二世の弟)とも会談している。アイアコッカの自叙伝『アイアコッカ わが闘魂の経営』(徳岡孝夫訳、ダイヤモンド社、1985)によると、フォード側は真剣に討議することなく一蹴したとのことである。1991年末には北米におけるフィアットの販売権をフィアット社に売却。また、三菱自動車と合弁方式でイリノイ州に建設した生産会社のダイヤモンド・スター・モーターズ(DSM)の保有株の全てを三菱自動車に売却してしまった。さらに、1987年に買ったランボルギーニも1993年にインドネシアの財閥に譲渡してしまった。(『モーターマガジン 4月臨時増刊 '92世界の自動車』)

 その一方でクライスラーはこの時期の苦しい試練を通じて自己改革が進んでいた。具体的に言えば、コスト削減や開発期間の短縮といったもので自力を付けることに成功した。1992年1月の「デトロイト・モーター・ショー」には待望の「LHカー」が披露され、同年’93モデルとして販売が開始された。私は少し遅れて出てきたクライスラー・LHSやニューヨーカーの実車を初めて見た時、何てカッコいいクルマなんだろうと「キャブフォワードデザイン」に見惚れた。その後、’94モデルのダッジ・ラム・ピックアップトラックが登場。これにも「わー、顔がコンボイみたいだ!」と感動したのは私だけでなくアメリカ人もそうだったのかヒットモデルとなる。また、そろそろモデル末期に近付いていたもののプリムス・ボイジャー/ダッジ・キャラバンもカテゴリー内で独走状態だった。

 再び『ビッグスリー崩壊』を見ると、1994年の米国新車販売台数は1,500万台まで回復している。1994年度のクライスラーの業績を振り返る。収入は52億ドル、当時の為替レートは概ね1ドル100円だったので5兆2,000億円、利益は37億ドル(3,700億円)、シェアは過去最高の15%を獲得した。それでもなお、クライスラーの株価は低迷したままだった。好業績の裏でクライスラーの大株主の一部が中心となり、現経営陣を取り込んだ友好的買収が計画されていた。

 

企業買収に詳しい人ならばカーク・カーコリアン(Kirk Kerkorian)の名を聞いたことがあるだろう。カーコリアンは1917年(大正6年)にカリフォルニア州で生まれたアルメニアアメリカ人である。『ダイムラー・クライスラー 世紀の大合併をなしとげた男たち』には書かれていないが、ウィキペディアの情報から推測すると、カーコリアンの両親は19世紀末から20世紀初頭に起きたオスマン帝国(現トルコ)によるとされているアルメニア人虐殺から逃れてきた人のようである。カーコリアンはアマチュアボクサーを経て1940年代にカナダ・英国空軍に入隊。第二次世界大戦終結後、世界各地からぼろぼろの払い下げ飛行機を仕入れては、身の危険も顧みず自ら操縦してアメリカに持ち帰り売り捌いた。儲けた金を元手に航空会社を設立する。ロサンゼルスからラスベガス行きのカジノ客を乗せるチャーター便の運行だった。この本が書かれた当時、カーコリアンは三つの航空会社と三つの映画撮影所を所有し、またラスベガスにある「フラミンゴ」「MGMグランド」といった世界最大のカジノリゾートを売買するカジノ王としても知られていた。保有資産30億ドル(1ドル100円として3,200億円)、『フォーブス』の番付で31位にランクされていた(ウィキペディアでは2006年に41位)。アクティ・トラックの60回払いのシュミレーションを見せられ、腕組みして首を傾げている私のような人間が3,200億回生まれ変わってもお目にかかることのできない人だ。

 カーコリアンは1990年からクライスラーの株を買い始めた。一株あたり10ドルだった。今や3,600万株、外部発行済み普通株の約10%を保有しており、残りの90%を買い占めるという計画を立てた。本人はクライスラー会長兼CEOのロバート・イートン(Robert James "Bob" Eaton)をはじめとする経営陣を味方につけての友好的買収のつもりでいたが、話のすれ違いにより「乗っ取り」と捉えられてしまう。そして、即座にクライスラーの反撃にさらされた。結局この買収計画は失敗に終わった。カーコリアン側が資金調達できなかったからだ。しかしその後も、カーコリアンが揺さぶりをかけ続けてきたことからクライスラー側も和解交渉に入る。一年かけてようやく「停戦」というべき協定が結ばれた。

 

この計画に一枚噛んでいたのがリー・アイアコッカである。1979年にクライスラーの会長兼CEOに就任し1992年まで13年間君臨した。後任のイートンに道を譲ったというよりは取締役会から頼み込まれて出ていったようだ。いや、もっと悪く言えば追い出されたようなものかも知れない。引退してもらうために、退職金の積み増しなど大金が支払われた。マセラティとの共同事業(Kカーに何てことを!)やランボルギーニの買収といった経営的に成功したとは言い難い事業にも手を付けていたアイアコッカには目に余る程の独裁的な権力の振るまいがあったに違いない。クライスラーを引退してからは「MGMグランド」の取締役や電動自転車の会社を経営したりしていた。また、ミズーリ州ブランソンという田舎のリゾート地にある劇場にも投資していた。私はブランソンに行ったことがある。セントルイスという都市からレンタカーを借りて数時間かけて辿り着いたことをうっすらと覚えている。ファクトリーアウトレットのショッピングモールとミュージカル劇場が集まるこの町を見た時、風景は異なるけれども「おおっ、アメリカにも熱海や草津みたいな観光地があったのか」と思ったものである。白人の老夫婦ばかり歩いていた。こんな話は関係ない。

 アイアコッカはカーコリアンと手を組み、クライスラーを買収した暁には共同経営者として影響力を行使したかったようだ。だがそれは陽の目を見なかった。それどころかマスコミにより「乗っ取り屋」「ハゲタカ」扱いされてしまった。自身の本『アイアコッカ わが闘魂の経営』そして『トーキング・ストレート アイアコッカ Part②』(徳岡孝夫訳、ダイヤモンド社、1988)の中で投資ファンドに対して痛烈な批判を浴びせていたことがあったから尚更だ。かつてクライスラー時代に出世の道を敷いてあげた元部下達全員からも拒絶されてしまう。新設された「クライスラー・テック・センター・プラザ」はアイアコッカの名を冠する予定だったが、これも撤回された。「クライスラーに不利になるような行動を取ってはならない」という契約に違反したとしてオプションの行使も認めてもらえなくなった。

もう一つアイアコッカの無茶振りが出たエピソードと言えば、1987年の取締役会でアメリカン・モーターズ・コーポレーション(AMC)の買収が決議された一幕が挙げられる。大多数がこの買収に反対した。しかし、アイアコッカはこの決定を覆し買収交渉を続けると宣言した。強引だったとは言え、今考えるとAMCを買っておいて良かったのではないだろうか。「Jeep」ブランドに目を付け入手したのは流石ではないか。あのまま「Kカー」しかなかったらと考えるとぞっとしてしまう。私ではなく世間が。

私がアイアコッカの立場だったら「Jeep」を全部売却しマタドールを復活させている筈だ。「ハマグリ・シルビア(二代目のS10型。アメリカではダッツン200SX)の顧客を奪取せよ!」などと大号令をかけていたことだろう。なかなか動かぬ社員に対して「つべこべ言わずダッジデイトナのボディをマタドール風に仕立てるんだ! さっさとやれ! この忌々しい奴らめ」なんて発破をかけてたりして。私のくだらん話はともかく、当たり前のことで商品に魅力が無ければ消費者はその企業・ブランドを支持してはくれない。1980年代の半ばからヒットメーカーのアイアコッカに取って代わって製品開発の指揮を執り存在感を増してきたのがボブ・ラッツであった。ダッジ・バイパーやプリムス・プロウラー、クライスラーPTクルーザーの開発ストーリーに登場する生粋の「Car guy」である。彼によって1980年代のクライスラーにこびり付いていた退屈な「Kカー」のイメージが払拭されていった。超有名人だからご存知の方も多いかと思うが改めてプロフィールを紹介するとこれが凄い。

 ボブ・ラッツは1932年(昭和7年)、スイスのチューリヒで生まれた。父親の仕事の関係で幼少期をヨーロッパとアメリカの両方で過ごし、11歳までアメリカとスイスの二重国籍を持っていた。1950年代、ラッツはアメリ海兵隊に入隊し戦闘機のパイロットとなる。海兵隊に在籍しながらカリフォルニア大学バークレー校に入学。MBAの取得後、1963年にGMに入社した。GMの海外事業部に8年間勤める間にオペルの販売担当副社長に昇進した。1971年、BMWに販売およびマーケティング担当取締役として移籍する。1974年、今度はドイツ・フォードに移るとヨーロッパ事業そして国際事業部のトップを経て1985年に米国に戻り、フォード・エクスプローラーの開発を率いるなどして副会長の座に就いた。クライスラーへは1986年に移籍している。

ダイムラー・クライスラー 世紀の大合併をなしとげた男たち』によれば、アマチュアレーサーであるラッツの自宅には12台のクルマと5台のバイクがあったそうだ。週末にはジェット戦闘機の操縦を嗜むとはどんな私生活なんだ。通勤は自家用ヘリ。おまけに墜落事故から軽傷で生還している。この本で「自惚れ屋」と書かれているとおり相当鼻につく存在だったのだろう。案の定、アイアコッカとは犬猿の仲だった。結局、アイアコッカはラッツに会長の椅子を譲らなかった。

 

アイアコッカが次期CEOに指名したのはボブ・イートンだった。イートンは1940年(昭和15年)、コロラド州に生まれカンザス州で育った。鉄道の車掌兼制動手の父と美容院を経営する母との間に生まれた。1963年、GMに入社し「Xカー」の主任技術者として頭角を現した。1982年には応用技術担当副社長に就任。1988年、GMヨーロッパ社長に任命される。1992年、29年間勤めたGMを辞めてクライスラーに移った。

クライスラーの収益改善は1994年から始まっている。それに対しては内部の改革と共に「LHカー」とコンボイ顔の新型ダッジ・ラムの発売開始、そして相変わらずドル箱のミニバンの貢献が大きい。当然、時期的に考えるとイートンはそのどれにも関わっておらず、イートンがCEOに就任した後でさえも会社を実質的に支配していたのはラッツだったという。

 

話を買収劇に戻す。カーク・コーリアンがクライスラーの買収意向を表明したわずか四日後、イートンは一本の電話を受けた。声の主は時のメルセデス・ベンツ最高経営責任者ヘルムート・ヴェルナー(Helmut Werner)だった。1987年、コンチネンタルタイヤからメルセデスのトラック部門に転身し、1992年にメルセデス・ベンツのCEOに就任した。その後の在任期間中に丸目ライトのEクラス(1995)、SLKロードスター(1996)、Cクラスのステーションワゴン(1996)を発売し大衆市場にアピールした。セールスとマーケティングの卓越したセンスが認められて社内から絶大な信頼を得ていた。「世紀の大合併」に至る前、メルセデス・ベンツクライスラーとの提携可能性を調査するプロジェクトが存在していた。「Qスター・プロジェクト」と呼ばれるもので、残念ながらその成果は後程登場するユルゲン・シュレンプ(Jürgen Schrempp)に認められず、またクライスラー側でも南米とアジア諸国の実態を目の当たりにし、「クライスラーの独自路線を維持すべき」という結論に至り実現しなかった。

 

当時メルセデス・ベンツそして親会社のダイムラーには悩みがあった。1980年代、ダイムラーAGは多角化戦略の下、行き過ぎた買収が祟り赤字経営に陥った。それは利益よりも成長を追い求めた結果だった。1985年から1995年の10年間で株価は半減し、多角化を推進したエドツァルト・ロイター(Edzard Reuter)会長はダイムラーを追放された。当時のメルセデス・ベンツの販売台数は年間80万台。EC域内12ヵ国の市場シェアは5%に満たなかった。大会社のイメージがあったからこれは意外。80万台というと10年前のスバルの規模である。1980年代末から1990年代初頭にかけてメルセデス・ベンツはスランプに陥り、高級車専念という考え方を改めて世界市場での成長を求めることにした。

クライスラーにも悩みがあった。品質が安定せず、海外での存在感が薄かった。これらがイートンの解決すべき課題だった。さらに、いつまた投資家から敵対的買収を仕掛けられるかわからないという不安を抱いていた。

両社はアジアやラテンアメリカなどの人口が急増する新興国への足掛かりを求めた。それには単独ではなくリスクを共有できるパートナーを必要としていた。とりわけクライスラーにはスリムな組織とコスト削減策を武器に大衆車で利益を上げる手腕があった。メルセデス・ベンツはこれを欲しがった。収益を二倍に増やしたい。収益の25%をアジアから得たい。

 

エドツァルト・ロイターに代わって低迷するダイムラーAGに大鉈を振るったのが「世紀の大合併」の主役であるユルゲン・シュレンプである。シュレンプは1944年(昭和19年)、ドイツ南西部フライブルグの生まれ。地元のメルセデス販売代理店に見習行員として入り、23歳の時にダイムラーに入社。トラックの保証と修理を担当した。1974年、南アフリカへ渡り、アパルトヘイト政策への反対運動が激化する中、米国オハイオ州のトラック部門へ転勤を命ぜられる。その2年後、南アフリカの現地トップとして帰任した。1989年、ドイツ本社のトラック部門のトップに就任する。同時にダイムラー・エアロスペースAGのCEOも兼任した。1995年、ダイムラー・ベンツ会長として合理化、早く言えば人員削減を伴う大リストラを敢行し、35あった内の11事業部門を切り捨てた。

 

私個人から見て、この合併劇から締め出されてしまった二人の人物が惜しい。まずメルセデス・ベンツ側。シュレンプは権力集中を目指した。当時、メルセデス・ベンツダイムラーAG全体の収益の70%、利益の100%をもたらしていた。親会社とは冷めた関係にありグループ内で独立心を保っていた。メルセデス・ベンツ監査役会で決議された事案はダイムラー監査役会で承認を得るという二重構造になっていた。シュレンプはそこに目を付けた。側近と周到に準備をし「効率化」を謳い文句にメルセデスを親会社に統合することをグループ役員に説いた。当然ヴェルナーは反対した。メルセデスのブランドを守るためには独自のアイデンティティとCEOが必要であると反論した。だがそれも虚しく、結局シュレンプの思い通りとなった。ヴェルナーには就けるポストが残されておらずメルセデス・ベンツCEOの座を降りた。

もう一人はボブ・ラッツである。ラッツには「大規模合弁事業は失敗する」という持論があった。アウト・ラティーナ(Auto Latina、アルゼンチンとブラジルにおけるフォードとVW合弁会社、1987年設立)、シトロエンマセラティ(1966年の提携と1968年の子会社化)、フィアットプジョーシトロエンのバン(1981年からのフィアット・デュカトと兄弟車のことかな?)を例に挙げ、「ワールドカーの夢の愚行」と扱き下ろした。また、ラッツはヨーロッパ、特にドイツを自身にとっての第二の故郷とする程、現地に精通しており、ドイツ車の高級感が脆いイメージであることも主張した。ちょっと長いが、『ダイムラー・クライスラー 世紀の大合併をなしとげた男たち』から引用っせてもらうと「実験用の白衣に身を包んだ男たちが様々なものを組み立て、優秀な技術者がほかの誰もが考えつかなかったあれこれの解決策を導き出すといった情景が目に浮かぶ。(中略)さて、いったんBMWメルセデスのような会社の内部に入ってみると、それが実際には正しくないことがわかる。そこにいるのはほかの会社と何ら変わらない技術者、設計者、原価分析者だし、取引先の下請業者はほかの会社と同じなのだ! イメージとはそんなものにすぎない。単なるイメージなのだ」だって。ええっ本当なの?

ラッツは合併交渉に役立たないことを悟られ、とりわけイートンから蚊帳の外に置かれた。ラッツの部下達はラッツに新会社の取締役会に入って欲しかった。ドイツ語で意思疎通を図ることができ、ドイツ式の経営にも精通していたからである。しかしイートンは拒絶した。その頃のラッツは65歳の定年退職を2年間延長し、間もなくその期限が切れるところだった。ラッツはイートンからの退職の願いを聞き入れクライスラーを去った。結果について知る由も無いが、もしもヴェルナーとラッツが互いの領域を尊重しつつ緩やかな提携を進めていたならば違った構図になったかも知れない。二つの大陸の「Car guy」による経営を見てみたかった。

 

1998年5月、「世紀の大合併」が幕を開けた。ところが企業内部の機能統合が本格化する前に、製品づくりで主導的な役割を果たしていたラッツは退職していたし、彼を支えていた優秀な幹部達がそれぞれの理由からクライスラーを去っていた。エンジニア上がりでデザイン部門を率いて「LHカー」、ダッジ・バイパー、ダッジ・ラム・ピックアップトラックなどを世に送り出していたトム・ゲイル(Tom Gale)だけが辛うじて残った。

ラッツの後継者として購買出身のトム・ストールカンプ(Thomas T. Stallkamp)が社長の座に就いたが、メルセデス側の乗用車部門責任者のユルゲン・フベルト(Jurgen Hubbert)とナンバーツーの地位を争うことになった。両者の上にはそれぞれイートンとシュレンプが対等の位置にいる筈だった。しかし実際にはストールカンプはシュレンプに対して報告義務があった。やがてストールカンプがシュレンプの避難の的となり突然イートンを介して退職を勧告されてしまう。

もう一つ奇妙なことが起きた。イートンとシュレンプは共同会長として新会社が軌道に乗るまでそれぞれの組織を運営することになっていた。これは対等合併の証である。イートンの方が先に辞任することが決まっており、そのことを早々と社内に伝えてしまったのである。必然的にイートンの求心力は失われた。イートン自身、部下が役員会で責められる場面があった時でさえ庇うことをしなかった。

実質的にダイムラー側が主導する形となった広報部門でも軋轢が生じた。クライスラー側の広報トップが退職し、側近二人を連れてGMへ移っていった。工学技術部門と製造技術部門のトップ二人もフォードに転職した。

ストールカンプの後釜としてジム・ホールデン(Jim Holden)が任命される。だが、米国市場の動向と競争環境を理解せず無理な利益目標を課すシュレンプに見放されクビを宣告されてしまう。当時のシュレンプはビル・ゲイツジャック・ウェルチに次ぐ名経営者としてもてはやされた。またダイムラーAGの中で絶対的な権力を振るった。シュレンプの戦略が常に正しく、間違っているのはそれを遂行できない人間の方だった。

 

ダイムラー・クライスラーの結末は皆様ご存知のとおり。カッコいいLXプラットフォームのクルマは出てきたけれども中南米やアジアを席巻するような大衆小型車の話はどこへ行ってしまったのだろうか。2007年、ダイムラークライスラー株をサーベラスグループに売却した。ここまで来て、この合併の失敗要因を調べてみたくなり参考になる本を調べてみたが、なぜかまるまる一冊これについて書かれたものが見当たらない。ウェブ上の関連記事を読むと「文化的統合が進まなかった」と結論づけられた記事が多かった気がする。そもそもダイムラー側は吸収合併の意図をオブラートに包みがら話を進めていった。他方、クライスラー側は対等合併のつもりでいた。最初から統治する側と支配される側が決まっていたならば文化的融合もなにも無かったように思える。そして支配する側に独裁的な振る舞いをするトップが就いたならば、従うか従わないか、課された目標を達成するかしないかだけだったのではないか。トップがあまりにも独善的、威圧的な態度を取れば、優秀な人材の中には去っていく人もいるだろうし、イエスマンばかりが残ってしまうだろう。こうなると、いったい会社やブランドを守っているのか経営者の成功神話を守っているのかわけがわからなくなる。これが、この本を読んだ私の感想である。 

 

本田宗一郎は別格として、本田技研工業の歴代社長の名前を順番に言えるだろうか。河島喜好(1973~1983、社長就任期間、以下同じ)、久米但志(1983~1990)、川本信彦(1990~1998)、吉野浩行(1998~2003)、福井威夫(2003~2009)そして伊東孝紳(2009~)と続いてきた。どの方も長い在任期間とカリスマ性を持った人物ばかりだが、「ホンダ=○○さん」といいたような特定の一人のイメージに固定されない。

トヨタはどうか。奥田碩(1995~1999)、張富士夫(1999~2005)、渡辺捷昭(2005~2009)といった創業家以外の方々であっても会社を大きく成長させている。

マツダにしてもフォードの傘下に入ってから4回も社長が入れ替わり、そのせいかカルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)の改革のようなインパクトを残さなかった。フォードの社長が短期で交代していったことに対し戦略の欠如を指摘する人もいるようだが別の見方もある。『マツダはなぜ、よみがえったのか?』(日経BP社、2004)の中で著者の宮本喜一さんは、フォードはマツダ再建のステージ合わせて最適な人物を社長に送り込んでおり、それは一貫性のある戦略に基いて計画的に実行されたものであると主張されている。確かにヘンリー・ウォレス(Henry D. G. Wallace、1996~1997)は財務、ジェームス・ミラー(James E. Miller、1997~1999)はブランド戦略、マーク・フィールズ(Mark Fields、1999~2002)はマーケティングと製品ラインナップの強化、ルイス・ブース(Lewis W. K. Booth、2002~2003)は中期経営計画「ミレニアム・プラン」の達成をそれぞれ担った。そして2008年8月、井巻久一にバトンが手渡された。それ以降、現在に至るまで全て日本人社長により経営されている。フォードは2008年から段階的にマツダ株を売却し、2015年に資本関係は解消された。マツダブランドは生き生きとし、会社は完全復活した。

 

イカコッカは1994年にアメリ自動車殿堂入りを果たしたものの、その後、自動車業界では目立った動きも無く(アメリカでは2000年代にクライスラーのTVCFに出たらしいが私は知らない)、2019年7月2日に生涯を閉じた。今回調べてみて「あー、こんな感じで終わっちゃってたのか」と些か残念である。でも、我々日本人が本田宗一郎に対して尊敬の念を抱いているのと同じように、アメリカ人にはアイアコッカのことを誇りに思って欲しい。そう願う私はアイアコッカを崇拝していたのだから「最も好きなクルマは?」と問われれば、迷わず「はい、ボクは'64 1/2のマスタングです」と答えるべきだが、実際はそうなっておらず、幼稚園の頃から50年近く集めてきたマスタングのミニカーを眺めてみるとマスタングⅡと、こんなに沢山持っててどうすんだというくらい不必要にFOXマスタングばかりである。1/43のダッジ・エアリーズのミニカーがネットに出ていた。いつか買おう。アイアコッカは大衆の味方だからこれでいいのだ。